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夏暁3

今日は母さんは夜勤なんだ。 自宅に帰った琉太は、自室───居間とキッチンがある部屋の隣の小さな和室に司を通した。 カバンを机の上に置き、畳の上に腰を下ろす司に言い置いてすぐに居間へと引き返す。 この部屋を訪れるのはいつのこと以来か。 久方ぶりに訪れるはずの部屋の中が小学生の頃からあまり変わっていないのは、余分な物が無いからだろう。 机の上に並べられた教科書と、担任にこっそり譲って貰ったという参考書だけが自分たちの成長を表しているようだった。 遠慮がちに部屋を見回した司の元に琉太が帰ってくる。手には来客をあった時に備えているのか、プラスチック製のトレイがあり、その上に並ぶ2つのグラスの中には氷と茶色の液体が揺れていた。 「ごめんね。うち麦茶しかなくて、あ、コンビニ行寄ってから帰れば良かったよね。お腹空かない?」 畳の上にトレイを直に置き、琉太が司の少し斜め隣に座る。擦り切れた畳の目地に視線を落とす琉太は、どこかぎこちなく、それを誤魔化すように明るい声で懸命に言葉を発しているように見えた。 「平気、」 この期に及んでも、司はあまり口をきけない。 数年前まで当たり前だった、どちらかの部屋で2人きりで過ごすこの時間がぎこちないものになったのはいつからだったか。 先月琉太が口にした言葉が蘇る。 「司くんとしたかった」 泣きながら零したその言葉の意味を確かめる勇気も無いまま、司はそれを縁にして琉太の傍に居て、そして一人きりの自室では───自涜を繰り返していた。 「…あのね、」 琉太が小さく落とした声にはっとして引き戻される。見ると、琉太は相変わらず畳の目の上に視線を向けたまま、軽く、ぎこちない形で口角を上げて何かを探るような横顔を覗かせていた。 「ん、」 「……この間、俺が言ったこと覚えてる?」 静かな声音に、手にしたままのグラスをトレイに置く。汗をかいたグラスが手のひらを濡らしていた。 「…司くんと、したかった、って、」 「───…」 突然、喉の奥が重たくなる感覚があった。 頷くことさえも正しいことなのかわからない。 次に何を言われるのかを考えると、恐怖すら覚える。 琉太は、あの言葉をどう思っているのかなど考えもしなかった。 自分はいつも、自分の感情だけで手一杯だ。 「…あれねえ、…本当なんだよ」 「……」 「本当に、俺はずっと、司くんとしたいと思ってた。…俺がされてること全部、司くんがしてくれたら良いのに、って、」 鼻の奥が熱くなる。 息が苦しい。 胸も詰まる。 琉太は───琉太と自分の思いは、 「……でも、…俺、…怖くて、」 とん、と校舎の屋上から背を叩かれたような心地があった。 琉太には触れられない。 それはあの日、最後に琉太に触れようとした瞬間に知ったことだ。 あの日以来、ずっと傍にいるような素振りをしながら、実は司は琉太との一定の距離を保っている。 指先も、腕も触れ合ってしまわないように。 他の誰かもまた、琉太に指1本触れないように。 司は琉太を守りたかった。 誰からも。 自分からも。 琉太は司が話を聞いていることを確認するようにほんの一瞬だけ司の表情を見てからまた目を逸らす。薄い唇が、きゅ、と結ばれた。 「…あのね、…司くん、ごめん」 「…なに、が…、」 ようやく漏れた声は情けなく掠れた。 謝ることはない、と何に対しての謝意なのかも分からないまま首を横に振る。琉太は困ったように笑った。 「俺ね、考えたんだ。…触られるのは怖いけど、司くんに、…触ることは出来るのかなって、」 ようやく、真っ直ぐに顔が上がった。 夏休み中は髪を切らない琉太の伸びた前髪の下の、大きな瞳が強ばりながら司を見つめている。 振り絞った勇気と、相手の反応を予想した上での怯えの色が混ざり合う瞳を司は見つめ返す。意味を尋ねるには、状況が掴みきれていなかった。 「俺から、…司くんに触らせてほしい、」 「……琉太、」 琉太がはいつの間にかグラスを手放していた。 それでも、大腿に置かれた司の手に触れた手が濡れていたのは、琉太の掌が汗ばんでいる為だ。 丸い瞳が司の目を遠慮がちに覗き込む。 瞠目する司の視界の中で琉太が大写しになり、やがてごく淡く唇を塞がれる感触があった。 「…ごめん、」 「…謝んなよ、」 唇はすぐに離れていく。 これ以上無いくらいに自分を責める瞳をした琉太が呟く。 謝ることはない、と近付いた琉太の身体に触れようとするも、既のところではっと気付き、ぎゅ、と拳を握った。 「…謝んなよ。琉太、」 「……、」 呟き、1度琉太の目を見据えてからその目を閉ざす。 傾く顔の角度に導かれるように、琉太がまた泣きたくなるほど柔らかい口付けを降らせた。

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