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20 欲望の加速①

父が完全に和哉に力負けしたのは、高校生になった頃。  自分自身の中の狼に呑まれラットを起こし、柚希に噛みつき犯そうとした時だった。  はじめてヒートに入りかけて寝込んでいた柚希に誘発され、番持ちのアルファ用の低用量の抑制剤が効かなかったのだ。  家族用トーク欄に母が柚希が体調不良だと書きこんでいてくれたおかげで、心配で部活を早引きし帰宅した和哉が駆けつけて寸でのところで事なきを得た。しかし直前の記憶が飛んでしまった敦哉や柚希よりも、その様をありありと目の当たりにした和哉の方が余程精神的なダメージを負うことになった。  日頃は父親に対して思春期らしく素直になれずにいだが、番を失ったのちにも若い父親は懸命に和哉を育て、同じく連れ合いを亡くした桃乃や柚希へ力添えをしていた。 そんな父を和哉なりに尊敬もしていた。それだけに和哉が愛する人を犯そうとした事実に怒りよりも先にがっかりし軽蔑してしまった。 (自分で僕には『狼を飼いならせ』とか恰好いいこと言ってたくせに、自分はαの本能に呑まれて……。馬鹿みたいだ)  父が番を失っているにもかかわらず、当時最低限の抑制剤しか使っていなかったのは、桃乃のため番を失い新たな番を求めるαの本能を抑え込むため、長きにわたって強い薬を服用しすぎたのがたたり、体調を崩したせいだ。  後になってそのことを知った和哉は父への認識を改めることになったが、その時はただ柚希を奪おうとした恋敵としか思えなかった。    父がしでかしてしまったことよりショックだったのは、同じくΩとしてのフェロモンを迸らせ妖艶に開花した柚希が、白くあの清らかな指先を自分を組み敷く男の背の上で舞う蝶のように揺らめかせ、誘うような淫らな動きを見せたのを目の当たりにしたからだ。  元より柚希は敦哉のことを慕っていた。父というより年の離れた兄のような感じで敦哉には素直に甘えられて傍にいる時はいつも幸せそうだった。 まだ背丈が柚希と変わらぬ和哉も、いつかは父と同じような逞しさを得てああいう風に柚希の隣に立ちたいと夢想するほど、端から見たら仲睦まじい恋人同士にすら見え妬けるほど打ち解け合っていた。  柚希が敦哉に向ける憧憬の眼差しは、和哉に降り注がれるひたすらに甘やかしてくる年下のものへの慈愛の感情とはまた違って見えて、薄っすら頬を染め艶めかしさすら感じる瞳を盗み見るたび、和哉は胸を焦らした。  組み敷かれる柚希とその様が脳裏をよぎり、続けて柚希の優美な白い指先の蠢きを見た瞬間、目の前が真っ赤に染まったような錯覚を覚えた和哉は、もう完全に我を忘れて牙をむき、父親の腹を蹴り上げ柚希の上からどかすと馬乗りになって殴りつけていた。  殴りながら煮えたぎる涙を迸らせ、殴りながら誰よりも傷ついて、ぼろぼろの和哉を我に返らせてくれたのは、続いて帰宅した桃乃が部屋の扉の前で上げた悲鳴だった。  自らが持っていた注射薬を柚希の脚に打ち込んだには気丈な桃乃だった。和哉のことも頬を張り付けて『和哉、しっかりしなさい!』と勇気づけ、ぐったり転がった敦哉にα用の抑制剤を打ち込んで、柚希にも自分の自分用の抑制剤を服用させて、全員で駆けつけてきた救急車に乗り込んだ。  今さらになって血みどろになって皮膚が擦れ骨も皮も軋むように痛みだした拳を握りしめて、がたがたと震える桃乃は和哉の肩を救急車が病院へ到着するまでの間きつく抱きしめてくれた。 『和哉、お父さんを責めちゃだめよ。私がもっと早く柚希を病院に見せてればよかったの……。ごめんなさい。柚希は高2の検査の時に、一度判定不明が出てから再検査でぎりぎりβになったの。もしかしたら、αかΩの可能性もあるから兆候が見られたら再検査を勧められたんだけど……。私は番持ちのオメガだからフェロモンは嗅ぎ分けられないし、柚希も大丈夫特に変わったことはないっていつもいうのを鵜のみにしてたから……。あの子のことだから何かあったらすぐに私に相談してくれると思ってたし、こんなの言い訳でしかない……。全部私のせいよ』 「それは知ってたよ。兄さんが一度判定不明になってたの。検査結果こっそり見てたから……。でも母さんのせいじゃないよ。兄さんの性格じゃ、大丈夫だと思ってたから話もしなかったんだろ?」 「そうだけど……」 「なら、大丈夫だったんだろ……」  すこし投げやりにそう言いながらも、和哉は膝の上に祈るような形で組んで腕をぎゅっと握り、いまだ抜けぬ興奮と自分自身柚希のフェロモンに僅かに充てられかけた身体を震わせていた。 「ねえ……。和哉も学校の検査より前に、病院で受けましょうね。バース検査。今日……。このまま病院で」 「……」  和哉は父にだけは自分がαであるとすでに告白して、病院で体質にあった量の抑制剤を処方してもらいこっそり飲んでいた。しかし桃乃と柚希に知らせなかったのはもしも柚希がΩだった場合、二人から共に暮らすことを厭われるのが嫌だったからだ。 (母さんには僕はαだって言わなければならないだろうな。でもその上でどうしたら柚にいの傍にいさせてもらえるか、考えなければならない。よく考えて答えないと)  必死に考えるが、まだ十代の和哉にも今回のことは衝撃が大きすぎて受け止めるのがやっとだった。今回のことは一歩間違えば週刊誌にでも面白おかしく書き立てられそうな内容で、父初めて殴りつけた拳も身体も震えたままだ。 (柚にい……。ごめん)  心の中で詫びた柚希に詫びた和哉には兄の突然のヒートに思い当たる節があった。思い当たって、だが家族には言い出せなかったのだ。  和哉は出会った当初から自分がαで柚希がΩであると信じて疑わなかった。それで一度判定不明になった柚希と同じケースのことをあれこれと独自に調べたのだ。  そういったケースの人間にはおおよそ成人するまでの間に揺らぎがあって、そのままβに落ち着くもの、αになるもの、βになるものがあり、調査によるとその時付き合っていた相手の性に合わせて落ち着くという結果もあったというのだ。  なにぶんαとΩの人間は数が少なく戦後になってから研究をされ始めた分野な上分母が小さすぎる研究であったので、半分は眉唾だと思ったが、和哉にとっては明るい兆しの見える内容だった。それに学生らしい気安さとポジティブさでそういう内容の文献ばかり読み漁った。  高校一年生はまだバース検査を受ける前だったが、和哉は安くはないバース検査費を今まで貯めたお小遣いやらをつぎ込んで自力でこっそり受けて自分がαであることの確証を得ていた。  兄にも一緒に再検査を受けてもらいたかったが、口実が見つからない。  何しろ当の柚希は自分がβだと信じて疑わなかったからだ。  バスケットで鍛えた身体は線は細めだが背丈もすらり高く、それなりに筋肉もあり、爽やかな見た目と朗らかな性格なので、よく女の子から告白されては能天気にありがたがってよく相手のことも知りもしないうちにすぐに付き合っていた。一緒に出掛けたり買い物に行ったりと友達でいいのでは? といった程度の交際を繰り返し、毎回いつかは本気になる相手に出会うかもしれないという焦れもあり、和哉はそれなりにヤキモキをさせられた。和哉がどんな気持ちでいたのかなど、優しい兄はいつでも気ままでマイペースに楽しく生きていて知らなかったのだろう。  だが柚希の彼女は大体、和哉のことを知るや否や蔭で和哉に連絡を取ってきたり、そうでない子も美形の和哉が優しくするとすぐに和哉の方に靡いてきて、適当にあしらうとまたどこかにいってしまった。 その程度の思いで兄と付き合おうなどと軽く擦り寄ってくる少女たちを穢らわしくすら思い、しかし兄に告白する勇気をまだもてない自分にも嫌気がさした。  出会いからもう7年もたち、和哉は父と柚希の背丈を越え、男として誰にも押し負けぬ存在になり得たら柚希に告白しようと、勉強も部活もとにかく頑張って、大学進学もその先も、柚希を養っていけるようにと彼なりに考えて着々と準備をしてきた。柚希は父を亡くしてから母と二人、父の親族につらく当たられ苦労していた時期もあるので、二度と寂しく哀しい思いをさせたくないと思っていたからだ。  そんな和哉の決意などどこ吹く風、柚希は相変わらず来るもの拒まずで児戯のような交際を繰り返しては和哉が暗躍して破局させてを繰り返す。しかし柚希をめぐるライバルは男も女もわんさかと多すぎて柚希の前では変わらずににこにこしていても内心は苛立ちを募らせていた。  そんな時相変わらず漁っていた判別不能者について、ネットで流れてきたこれまた都市伝説に近い学説に興味を覚えた。  α性を持つものがΩ性の因子を持っているβ性のあるものに性フェロモンで影響を与えながら、粘膜での接触を途切れなく続ければΩ性に傾いて発現が早まるというものがあった。  あまりに淫靡なその一文が頭から離れず、それを言い訳にして思春期真っ盛りだった和哉は柚希へ告白できぬ鬱屈を晴らすことにしたのだ。

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