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34 最終章 優しさで貴方を奪う
番になってまだ一週間もたっていない。まして番になる直前まで他の男と付き合っていた柚希のことを、和哉が信じ切れるのも無理からぬことだ。
(カズ。ごめん。どこまで本気か分からないけど、俺に仕事を辞めてずっと家にいて欲しいなんて言いだしたのも、きっと俺のことを信じ切れないからなんだろうな)
生涯一人の相手としか番うことができぬ事実すら、和哉の心の底に流れる不安をぬぐえないということ。
(それを取り除けるのは、きっとこの世で俺だけだ。でも……失望されたらって思うと、怖い)
トクトクトクっと早鐘を打つ心臓の音。パーカー越しに和哉の耳にも届いてしまっているだろうか。
「違うよ……。カズ。お前が何でもネガティブな方に考えしまうのって、全部俺のせいだな。俺が今まで流されるまま、ふらふらさ。何の覚悟もないまま臆病に生きてきたせいで、お前をすごく傷つけた。ごめん」
「……いいんだ。今こうして、柚希が僕と一緒にいてくれる、僕を選んでくれたって事実が、僕には一番、大切」
それでも発情期が終わった今、昨日までのように互いの身体も心も縛り付けるように寄り添ってばかりはいられない。どんなに弟が気がかりでも、明日からはこれまで通りの日常に戻っていかねばならない。
柚希は無意識に子どもの頃、ソファーで眠たげに柚希の膝に頭を載せてきた和哉によくそうしてやったように襟足から指先を入れて優しく規則的に柔らかく頭を撫ぜ続けた。
口からフーっと長く息を吐くと幼い頃のようにいつの間にか首を傾け柚希だけを真っすぐに見つめてくる、和哉の綺麗な瞳に勇気づけられ微笑みかけた。
「俺さ。母さんと同じΩだって判定されてから、ずっと怖かったんだ」
「父さんと、あんなことがあったから?」
「まあ、それも一つかもしれないけど。それ以前にもうずっと、俺は。……カズ、俺のこと。ぎゅってして」
言葉の通り和哉は柚希の胸に抱かれていた身を起こして、兄を死んでも離さないとばかりに長い腕を柚希の背中を交差するように腰まで掴んでぎゅっと巻き付け抱き込んだ。
和哉から放たれる黄金のあの花に似た香りは少し薄らいで感じたが甘く柔らかく柚希を包み慰めてくれる。
「俺の母さんはさ……。知ってると思うけど、自分の親族とは折り合いが悪くて、いわゆる天涯孤独ってやつだ。だから俺にも親戚はいない。もしも母さんまで失ったら……。それこそ本当に天涯孤独になる。そのことがずっと怖かった。俺はお前とあの時出会えて、お前が弟になってくれたこと、神様が俺に下さったプレゼントみたいに思えたんだ。……お前天使みたいに可愛かったし」
「兄さんもすごく可愛かったよ。笑顔がね、僕が出会った人の中で一番綺麗だって、そう思ったんだ」
「……だからね。お前にはいつだって幸せでいて欲しい。笑って欲しい。俺のこの気持ちに偽りはない。お前のことをすごく、この世の誰よりも、一番に大切で、愛しているんだ」
「……うん。分かってるよ。兄さんからの愛情。ちゃんと受け取ってきた。それに僕だって兄さんにはこの世で一番幸せになって欲しいって思ってきたし、出来れば僕が幸せにしてあげたい、兄さんを護れる男は僕だけだって思って、その気持ちだけが僕をここまで引っ張ってきたんだ。それは分かって?」
柚希は今こそ弟の気持ちに応えたいと身じろぎし、和哉が綺麗だと褒めてくれた笑顔を見せたくて少しだけ無理して微笑んだ。
「ありがとう。分かってたよ。お前が俺に注いでくれる愛情、いつでも浴び続けて心地よかった……。今まで、お前が望んでいるような形の愛情を返せていなかったと思う。でも俺にとっては正直、他人でいつかは心変わりして別れるかもしれない恋人より、ずっとずっと切れない絆がある家族の愛情の方がよっぽど強いって思ってたから……。結果的にお前の気持ちに応えられなかったのは俺が臆病なだけだろうな。お前をそんな風に失いたくなくて」
「そうか……。そんな風に兄さんは考えていたんだね」
「それにさ、母さんが夫を……番を失っただろ? ほかに頼る人もいないのに。俺だったらそんなの即、つんでたなってぐらい。人生ハードモードだろ」
「うん」
「けど、母さんはさ……。あんな華奢なのに、しぶといぐらいにタフでさ。それでも……。それでも、あんなに強い母さんでも、一人で発情期を越え続けるのは本当に厳しくて……。俺は傍でずっと苦しむ姿を見てて辛くて堪らなかった」
和哉や敦哉と共に暮らすまでの二人の生活。その頃のことを思い出したのか柚希が小刻みに震えているのを感じた。世話好きで明るくてしっかりものの柚希。そんな柚希の人には見せぬ彼にしか分からない、心に残る大きな傷跡は未だに塞がっていないのだ。
(桃乃母さんと二人きりで生きてきた過去のことは、二人ともあまり口にしない。二人きりの生活の中で度々薬で抑えきれなかった時に訪れたはずの母親の発情期……。まだ幼かった兄さんの目の前で、きっと壮絶なやり取りがあったはずなんだ。あの頃の僕にはよくわからなかったけれど……。番を失ったΩは一般的には発情期の身体への負担が大きすぎてあまり長生きしないって言われている。父さんの努力と医学の進歩と、なにより母さんの強い精神力で今までうちもなんとかやってこられた。……兄さんには黙っていてって云われたけれど、母さんこの3年薬の副作用で寝付いた時期もあったぐらいだ。怖ろしがって当然だ……)
「俺がΩ判定されて……。真っ先に思い浮かべたのは、このことだったんだ。もしも俺も番を失ってしまったらって思ったら、俺は母さんみたいに強くない。あんな苦しみ、絶対に乗り越えられない。きっと気が狂って、どうにかなってしまうと思った。それが怖ろしくて……。堪らなかった」
「ごめんね……。僕は自分のことばっかりで兄さんの苦しみを分かち合ってあげられなかった」
「そんなことない。カズ……。お前、いつも俺の傍にいてくれただろ? もしも番を失ったとして……。俺にはずっとお前がいる。いてくれるって……。その言葉に縋ってしまったんだ。兄弟のお前が傍にいてくれるなら、どんなことでも乗り越えていけるんじゃんないかって思ってた。……でもお前が番になってしまったら……」
和哉はついに兄が抱え続けた苦悩の正体にたどり着いた。
「僕を失ったら、兄さんは、兄弟も番も、どっちも失ってしまうかもしれないからだろ? 桃乃さんみたいに、すべて失ってしまうから」
こくりと頷く兄は弟に溺れる者のように必死でしがみつく。
「俺、狡いだろ? 自分のことばっかり考えてて……。お前のことが誰より一番大事だって思ってたのは、ただの俺のエゴで、お前の気持ちも晶の気持ちも全部利用した。それでも、お前が去ってしまうって言われて……。耐えられない。お前を失うなんて、無理。どうしても、無理だった。それでこんな……。番にまでなって、お前を繋ぎとめようとした。ごめん……。狡くて醜くて……。俺なんかがお前の番でごめん」
(それが兄さんの本心……。やっときけた。やっと言ってくれた)
「じゃあさ、僕も言わせてもらうけど。僕は僕が死んだあとだって、番が別の男と暮らすなんて絶対無理。桃乃さんとうちの父さんみたいなのは絶対に嫌だ。やめて欲しい。柚希は僕が死んでも、未来永劫。僕のものだ」
再びがばっと顔を上げた柚希の瞳から大粒の涙がぴゅっと飛び出してそのあとはもう決壊した涙の堤防は次から次にぼたぼたと零れて落ちる。
「うっ……」
「だからさ、柚希。僕だってさ、僕より柚希に絶対に先に死んでほしくないけど、そこは譲る。愛してるから。僕は一日でも一秒でも柚希より長生きするね? 絶対に兄さんのこと、僕が看取ってあげる。だから安心して? 僕を番に選んだこと、後悔させないから。これから絶対に不慮の事故には気を付けて生きる。危険そうな所には近寄らないし、健康第一。それでも僕が病気にかかったり大けがして兄さんより死ななきゃならなくなったら……」
「……」
そんなこと考えただけでも哀しくて、番になってからはより和哉との絆を深く感じる心と身体のそのどちらもが震える。
「どうにかして兄さんのことも、一緒に死ねるようにしてあげる。絶対する。何が何でも、兄さんだけおいてはいかない。それでいいよね? それならもう怖くないよね?」
重く狂おしい弟の執着は今なお続いているというか、むしろ番になって増しに増したというか。
「ぎゃ、逆に怖いっ……。お前、怖すぎる」
「ねえ知ってた? 狼の番は一生同じ相手と連れ添うんだよ? 相手に死なれたら後追いすることもあるんだって」
いいしな和哉は指の長い掌で柚希の首を正面から顎ごと自然に掴み上げると、きゅっと力を込める。柚希は瞬間息をつめ、そして逃げることも叶わず双眸を見開いた。
「綺麗な目」
和哉は顔を傾け、キスするような仕草をみせつけながら、急に柚希の綺麗な鼻筋にガブっと噛みついて和哉は微笑んだ。
「いてっ!」
「狼だって自分の死期を悟れたら……。番を道づれにするかな?」
和哉は車を先に降りてわざわざ柚希の側までまわって、扉を開けてまだ降りてこない柚希に掌を差し出してきた。
「いこうよ?」
激しい執心を再び人懐っこい笑顔に包みこんだ和哉の手を、柚希は迷わずしっかりとつかんで立ちあがった。
ひざ掛けを掴んでシートに放り投げると、その勢いで弟の大きな掌を頼もしく思いながら、長く太い指の間に自分の指を滑り込ませてしっかりと繋いだ。
そして実家に向けて自分が先を先導する様に足早に歩き出す。
日は完全に傾いて、赤々と燃える太陽の横からの日差しが兄のシルエットを黒くはっきりと浮かび上がらせる。色素の薄い瞳を細めた和哉は、ぐいぐいとひっぱる和哉の手を引っ張って歩く兄の姿に、あの日自分を孤独から連れ出してくれた少年の日の幻影を見て、愛おしさと切なさに胸が痛んだ。
「カズ!」
「うん」
「なるべく痛くなく、頼むな? 俺、痛いの苦手だから」
「……兄さん」
振り返った兄の顔は、逆光で分かりにくかったが多分明るい笑顔だったと和哉は信じている。
家の手前にある角を曲がったら、少し寒そうに自らの二の腕を摩る桃乃と、上着をもって後ろから駆けつけてきた敦哉の姿が目に飛び込んできた。和哉は何故だか胸にこみあげるものがあるのを抑えきれず、涙を零さぬ代わりに兄としっかり繋いだその手を二人から良く見えるように、高く高く上に掲げて大声で叫んだ。
「母さん! 父さん! 柚にい帰ってきたよ!」
終
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