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春遠い、バレンタイン 後編

(やっぱり貰ってきたか……) 「ごめん、ヘッドホンしててなにも聞こえなかった」  思ったよりも冷たい声を出してしまったようで、柚希は顔を曇らせた。日頃和哉にでろでろに甘く優しい兄は、夏休み中彼女ができたことにより和哉にかなり冷たくそっけない態度をとられたことが堪えて、思春期の弟の扱いに時折こんなふうに困った顔をする。 (……そうやって、兄さんは僕のことでだけ、困っていればいいんだ) 「話したいことがあるみたいだから、玄関いってあげなよ」  兄に促され、仕方なしに立ちあがる。早めに話を聞きに降りて行こうと、気が進まぬ足取りで階段を下りていった。  扉が重たく感じるのは、湿気交じりの大風が吹いて向こうから扉を押さえつけていたからだろう。  ゆっくり開くと扉の向こうに最初に見えたのは、意外なことに武士のように仁王立ちし、真面目な顔で佇む岸だった。襟足まできっちり切られた黒髪にコントラストの強い色白の顔は何故かむっつりとした表情で、チョコレートを渡しに来たにしては剣呑すぎる。彼女からのメッセージを無視でもしてしまったのかと和哉は瞬時に頭を巡らせた。 「ごめん、連絡してくれてた?」 「いや、してない。直接来た。ごめん。優乃、ほら」  岸が急に優しげな声を出して後ろを振り返ると、ひょこっと小さな顔がすらりとした彼女の背中からこちらを覗きこみ、また背の後ろに隠れていく。 (……みたことあるような、ないような子だな?) 「直接渡したいって勇気出すって言ったでしょ?」  そう促され、ようやくその女生徒が和哉の前に姿を現したのだ。同じ中学の制服ではなく彼女は私服姿で、私服姿だからこそ一瞬印象が浮かばなかったが顔を見たら思い出された。 「皐中の女バス?」  こくこくこくっとその子が一生懸命真っ赤な顔をして頷いている。隣りの中学のバスケ部とは顧問同士が仲良しなのもあり比較的よく交流を行っているのだ。その子は隣の中学の女バスの中でひときわ小柄で、しかしすばしっこくてひょいひょいとシュートを決めていたから印象に残っていたのだ。  いつもツインテールにしていた髪を下ろして、心なしか薄化粧をしているのか色づいた唇を震わせて何か言いたげな顔をしている。 「あ、あの……。ええと」  幼い舌ったらずな喋り方で、下に下ろしていた手を持ち上げると、首を垂れながら恭しく、和哉に小さな桃色の紙袋を差し出してきた。 「あの、好きです。これ、うけとって、ください」  背後で家の扉が開いたような音がしたのを感じながら、和哉はどうしたものかと考える。ふと視線を門柱の上に母が置いた鉢植えのシクラメンの赤がバレンタインの紙袋か何かと一瞬みまごい顔を上げると、末広二重で涼し気な目元を炯炯と光らせた岸と目と目が合ってしまった。  瞬間互いの間にあった交感は稲妻でもびりびりと走ったかのような激しい感情のやり取りだ。これはたぶん互いに感じ取っているのか、岸は少女を挟んで親の仇でも見るような顔をしたまま、和哉から目を反らさない。  その顔つき、その眼差し。和哉には覚えがあった。  まるで鏡の中の、自分にそっくりな表情だと。 (ふうん? |お仲間《・・・》なのかな?)  和哉は敢えて目を反らし、中学生にしては端正に整い過ぎた大人びた顔立ちにアルカイックな微笑みを浮かべてわざと聞こえよがしにきっぱりとこう言い切ったのだ。 「ごめん。受け取れない」    少女はだまりこみ、綺麗に巻いた前髪を乱し小さな声で『わかりました』と呟いて項垂れた。感受性が強い時期だ。面と向かって断られたことで、緊張の糸がふつり、と切れたのだろう。ふらふらと気でもやりそうなその肩をすかさず岸が抱き寄せて耳元で囁いている。 「優乃、帰ろうね?」 「うん……」  震えた声は涙に染まっていた。和哉がすぐさま振り返ると、元々色白の顔をさらに紙のように白くした柚希が玄関に立ち尽くしていた。 「カズ……。お前、あんな言い方ってないだろ?」  兄を無視して電気もつけていない暗い廊下をどんどん自分の部屋に戻っていくと、後ろから柚希が追いかけてくる気配がする。  ついに部屋までたどりつくと、柚希はそのまま和哉の部屋に一緒に入ってきたので、和哉はくるりと振り返る。 「兄さんは自分が受け取ったから、僕にも受け取れっていうの?」 「え……、そういうわけじゃないけど、あんな言い方、あの子が傷つくだろ?」 「好きじゃないのに受け取るだけ受け取る方が残酷だろう? それともなに? 告白されたら、絶対に付き合わないといけないの? 兄さんみたいに誰にでも優しくして、来るもの拒まずで」 「俺は、告白してくれたなら、俺のことが好きなら、その気持ちに応えてあげたいとは思ってる。それはいけないことなのか?」  大きな兄の瞳は真っすぐで嘘も衒いもなく和哉をとらえていたが、和哉はいつ何時でもただ正しく美しく見える兄のそんな顔を、ぐじゃぐじゃにゆがめてしまいたい衝動に駆られる。思わず兄がその前に立つ扉にどんっと片手をつくなどと恫喝めいた真似をした。  いわゆる壁ドン状態なのだが、身長はまだ高校生の兄より僅かに低い。和哉もかなり背は高い方だが、兄もまだ伸び盛りなのだ。  それでも驚いて思わず扉に向かってよろけた兄とは目線と背丈が釣り合って、逃げ出さぬように両手で扉に兄を囲い込んでしまった。 「柚にいは、告白されたら絶対に付き合うの?」  じいっと見つめる眼差しに熱量を込めて囁けば、柚希は口をぱくぱくっとさせて喘ぎ目をつぶる。 「なんだよ、これ。やめろよ」 「なに、兄弟なのに恥ずかしがってるの? 兄さん元カノから借りた少女漫画の読み過ぎなんじゃない?」 「お、お前こそこれ、まるで」 「壁ドン?」 「う……。揶揄うな」  思わず腕から逃れようとした柚希の二の腕を、和哉はすでにこの時点で柚希より大きな掌で掴み上げて逃さない。思いのほか弟の力が強くなっていて、驚いた柚希は瞳を僅かに滲んだ恐れに潤ませながらじっと和哉の顔を見つめてきた。 (すごい、可愛い。柚にい……)  間近だと兄のシャボンのような香りがさらさらと甘く鼻をくすぐる。さらに追い打ちをかけるように、こんなふうに耳元で囁く。 「じゃあ普通、漫画だと、この後何するか分かる?」 「離せって……」  和哉はやや間をためながら、大抵の人に見惚れられる自分の顔を最大限に生かして柚希の瞳を真っすぐに覗きこむと、絶妙に甘い声色で心から呟いた。 「『柚希、好きだ』」  わざと見せつけるようにゆっくりと顔を寄せて行けば、柚希はひゃあでもわあでもぎゃあでもつかない謎の奇声をあげて、和哉の胸をぎゅっと逆の手で押し返し、じたばたとし始めた。幾らなんでも拒絶されると傷ついて、それでも和哉は兄の白い額にちゅっと軽く口づけを落とした。 「……へ?」 「口にして欲しかった?」  安堵の声を逆手にとって、囁くと、柚希はぶんぶんと頭を振る。しかし黒髪から覗く貝殻のような耳が先まで真っ赤になっていることに、和哉はようやく胸がすく思いになった。 「か、揶揄うな!」 「いいからほら、兄さんが貰ったチョコみせて? ホワイトデーに何買うか母さんと相談した方がいいんじゃない?」  身体を離しそんな風に言葉巧みに誘導したら、兄は弟の機嫌が直ったと安堵したままへらりと笑って首を振った。 「俺、誰からももらってない」 「え? 嘘つくな。さっき紙袋持ってただろ?」 「あ……。あれはさ。母さんがテレビ見て『これ凄く綺麗で美味しそう、食べてみたい』って言ってたチョコ。バイト代で内緒で買ってきたんだ。ちょっとまってろ」  柚希はいそいそと部屋を飛び出していくと、すぐに戻ってきて、先ほどの紙袋の中から小さな箱を取り出して和哉に手渡してくれた。 「カズ、テスト勉強頑張れよ。これ中々の値段だったから母さんの箱のが敦哉さんとカズのより大きいけど。今年は手作りじゃないけど、俺の財力つぎ込んだから勘弁してくれ」  綺麗な蒼い箱は包装紙ではなく黒いリボンがかかっていて、開けてみると濃淡の違う不思議な蒼い色のチョコレートが二つ入っていた。 「これ、本当にチョコレート?」  思わず頬が緩んでしまうのは、愛する柚希からチョコを貰うことができたのだから仕方がないだろう。 「バタフライピーっていうハーブから自然の色素をとっているんだってさ。ホワイトチョコと合わせてあって……。綺麗な青だよな。幸せを呼んでくれるって、売り場に書いてあったから」 「そっか」  家族思いの柚希は幸せを運んでくれるチョコレートを家族みんなに振舞いたくて、なけなしのバイト代からチョコを買ってくれたのだろう。    早速包み紙を開いて、口の中に入れてみる。味わうように溶かしていくと、これがハーブの風味なのかというものもわかりそしてとても香り高く美味しく感じられた。  甘いものが大好きな柚希がちょっとうらやましそうな顔をしたから、和哉はもう一枚を手に取って、再び柚希に近寄っていく。  先ほど散々揶揄われたと思っていた柚希が腰を引いたから、和哉は先回りして背中から腰に手を回し、まるでダンスでも踊るかのように制服の兄を引き寄せる。    思わず潤み揺らいだ兄の瞳に誘惑されて、再び唇を近づけて行ったら、柚希は観念したように、きゅっと瞳を瞑ってしまう。 (あー。もう。本当に兄さんてちょろいっていうか……。心配になるっていうか)  このままキスをしたら、それ以上を求めてしまいたくなるかもしれない。それほどに甘い誘惑に襲われた和哉は、口づけを諦め、代わりに兄の唇の中に、チョコレートをねじ込んだ。  長い睫毛がふさふさと揺れ大きな瞳を見開き、柚希は幸せそうに頬を染め、うっとりとした顔で舌を震わせる。 「あまいな」  蕩けるようなその表情に魅せられて、中二男子の和哉は堪らず、兄の頭をがしっと小顔な兄の頭を後ろから鷲掴みすると今度こそ本当に唇を合わせてしまった。 「んっ!!! んん」  中一ぐらいまではがつがつワンちゃんごっこを匂わせて柚希に口づけたりしていたが、夏に柚希に彼女ができたあたりから流石に唇にキスはしないできた。拒まれたら立ち直れないのと、徹底的に奪い返してしまいたくなるだろう欲望を止められなくなりそうで……。  しかしもう、そんな姑息な考えなど頭から吹き飛び、少し成長した兄の、変わらぬ唇の柔らかさに吐息を乱してチョコレートを味わう間もない程、思いをぶつける様に荒々しいキスを続けると、急に兄が足元からへなへなと崩れ落ちた。    流石に背丈と体重がそれほど変わらぬ男を支えられるはずもなく、諸共に床に引きずられるように倒れこむと、その拍子に唇も離れてしまった。 「いたっ」  兄の頭だけは死守しようと頭を抱き込んで倒れたため、強かに腕を打ち付けてしまい、思わず声が漏れる。  柚希はキスをされた驚きよりも先に弟の身体が心配になって、すぐに起き上がり逆に今度は弟の身体を抱き寄せた。 「カズ、大丈夫か? 凄い音した!!!」 「大丈夫」 「ごめん、俺……」 「僕こそごめん……、そっちの味、味見した」  寝転がったまま互いに瞳を見つめあい、なんだかおかしくなってしまってどちらともなしに噴き出した。 「なんだそれ? 一つずつしか同じチョコないから?? 母さんのとこに入ってるのに」 「そうだけど……」  流石に苦しい言い訳だったが、兄はこれもいつかのワンちゃんごっこの延長戦とでも思ったのか、水に流してくれるらしい。  それならそれでもいいと思ったが、一抹の寂しさで胸がぎゅっと絞めつけられるのは、まだ和哉が柚希と吊りあうまでに成長できていないと告白のタイミングを見計らっているから。 (でもいつかは……。兄さんを僕だけの兄さんにして見せる)  今はただ、身体を起こした柚希の大きな瞳いっぱいに自分だけが映っていることを喜ぼうと思った。 「カズ、機嫌直ったな。夕食の買い出し、いく?」 「いく」 「じゃあ、俺着替えてくるから」  にこにこしながら柚希はすくっと立ち上がり。  柚希は自分の部屋につかつかと戻っていくと、後ろ手に扉を閉める。  すかさず両手で口元を覆うと、顔を真っ赤にして『はああああああ』っと大きく息を吐いた。 (なんなの、なんなんだよ。中学生であの色気は何? やばすぎるだろ。腰砕けちゃったよ。も、いい加減、悪ふざけじゃすまないだろ)  和哉のブラコンは今に始まったことではないが、それにしてから度が過ぎる触れ合いに胸がばくばくとなって柚希はそのままベッドに倒れこんでじたばたとした。 (うう、中学生に男の色気で負けてるわけにはいかない。俺もちゃんと彼女作んないとな……。じゃないと……) 「和哉が兄貴離れ、できないもんな……」  口ではそんな風に言いながら、先ほど和哉が女の子にはっきりと断っている姿を後ろから見て居て、どこかほっとしている自分がいたことに。  柚希は気がつきつつも……。  その感情に向き合うには、まだまだこの季節のようにあと一歩、  春は遠かった。                               終 一二三⊂(⊂ *‧ω‧)つ💝🍫( '-' 🍫)チョコパンチ 小学生と中学生の時よりちょっと成長して 禁断な雰囲気が出てしまいました。 ご覧頂き感謝です🙌💕      

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