54 / 80

番外編 夏祭りの約束 1-2

  久しぶりに我が家の玄関前に立つと、門扉の下に飾られていたプランターの日日草はすっかりしおれてしまっていた。夏の暑さで母がいくら丹精を込めても夕方にはすっかりしおれてしまうようだ。昼間もまた33℃を記録し、水をやってもやっても根腐れを起こしてしまうのだろう。それだけで、なんとなく寂しい心持ちになった。  風が出てきてまだ日没には早い黄色い太陽を雲が翳らせる。  ざわっとした音が耳元を吹き抜けていき、なんとなく心も同じく波たたせながら柚希は実家に合い鍵を使って開けて入っていった。 「お帰り」 「あ……。和哉」  大学受験に向けて夏期講習で日々忙しくしているはずの和哉が玄関で出迎えてくれて面食らう。それがもろに顔に出たのだろう。和哉の方も大きな瞳を見張り、怪訝な顔をして見つめ返してきた。 「柚にい、なんて顔してるの? おかえりなさい」 「あれ? 今日は塾ないの?」 「塾も今週末はお盆休みなんだよ。……兄さんが帰ってくるんだから、僕だって息抜きしたっていいだろ?」  玄関のたたきに立った、見上げた和哉の顔は心なしか機嫌が悪げに感じられた。心当たりを頭の中で整理して考えてみるが、思いつくことは一つぐらいかない。 (やっぱあれかな……。ここんとこ寝落ちを装って通話しなかったから。昨日も出なかったし)  自宅に帰ると一人暮らしの柚希を心配した和哉と、スマホを繋ぎっぱなしにしていた生活をしていた。しかしそれが受験生の和哉の勉強の妨げになってはいけないと最近では和哉の呼びかけに応じず、敢えて出ないこともあったのだ。そのあたりが原因のような気がしていた。というか他に身に覚えもない。 「あ、これ。ゼリー買ってきた。マンゴーのやつ。母さんは?」 「ゼリーありがとう。買い物して帰るから遅くなるって」 「そうなんだ。じゃあ母さんきてから夕飯作るの手伝うんでいいかな。久々にゆっくりさせてもらおうっと」  持っていた紙袋を腕を上げて手渡すと、和哉はにこっと子どもの頃のように邪気なく笑ったので柚希は弟の機嫌が直ったかとほっとしてにこにこっと笑い返した。 「兄さん、今日さ……」 「何? 久々にゲームでもやる? 」  そんな風に気安く返したら、和哉はすぐにむっとした真顔に戻ってしまった。 (カズ、やっぱりちょっと機嫌が悪い? 俺が帰ってくるの嫌だったのかな)    冗談っぽく「なんで機嫌が悪んだよ~」なんて言いながら背中でもぱしぱし叩けば普段通りの和哉に戻るのかどうか、ちょっと合わない間に今までどんな気安さで接していたのか分からなくなった。  それもこれも、少し見ないうちに和哉の頬からまた幼さがそぎ落とされ、精悍ともいうべき少し大人びた表情を見せているからか。あの公園で出会った時のように屈託なく甘えてくれた和哉がもうどこにもいなくなってしまったのではないかと、それが少しだけ寂しく思えた。   「暑かったでしょ? 早く中入りなよ。シャワー浴びる?」 「ごめん、汗臭いよな……。ほんと、外死ぬほど暑くって……。俺の着替えってまだなんかある?」 「あるよ」 「和哉、なんかまた背が伸びた?」  前回和哉に会ったのは彼が打ち込んでいたバスケの事実上の引退試合を見に行った時。夏休みに入る直前だったか。チームメイトの中でも群を抜いて長身で、ずば抜けて恰好がいい。和哉が相手チームのパス回しをカットしたり、難しそうな位置からも果敢にシュートを打つたび女の子たちの黄色い声援があちらこちらから上がって兄として柚希は非常に鼻が高かった。あの時から薄々感じていたが、靴を脱いであらためて和哉と並んでみたら、自分の目線がやや上に行くのが分かった。   「春にはもう兄さんのこと抜いてたよ。もっとデカくなるから覚悟しておいて?」 「何を覚悟するんだか」 「ふふっ」  口元に意味深な笑みを浮かべて、和哉は少しだけ機嫌が上向いたのか、雰囲気が柔らかくなる。逞しい肩幅もに高い腰の位置も含め、一回り身体が大きくなった和哉の背中についてリビングに向かっていった。 「兄さん顔、だいぶ日に焼けたの? 真っ赤だよ。はい、麦茶」 「あ、チャリ通で結構焼けちゃったんだよね」 「え? この暑い中まだチャリ通してるの? 無茶するよね。熱中症で倒れたりしたら危ないよ」 「だよな。はは……。流石にちょっと昨日あたりで限界だった」  リビングのソファーに座って力なく笑った柚希に和哉が甲斐甲斐しく氷まで落としてキンキンに冷えた麦茶を手渡してくれた。ありがたく一気にそれを飲み干すと、ようやく一日中身体のうちに籠っていた熱がすうっと冷えるような心地だ。 「やっぱ、母さんの麦茶は美味い」 「もう一杯いる?」 「うん」 (やっぱ実家は落ち着く……。麦茶の味すら懐かしい)  実家の麦茶は母が薬缶で煮だして部活に行くときもタップリ持たせてくれた。濃いめにに出した味が懐かしい。夏を感じる味わいだ。  コップをもってダイニングから戻ってくれた和哉に柚希はリラックスした様子で何気なく声をかけた。 「和哉さあ、背が伸びて、後ろ姿、ますます敦哉さんそっくりになったね」 「……っ」    麦茶を渡してくれつつも、何がいけなかったのか和哉がまたむすっとした表情をして黙り込んでしまったので、柚希は二杯目半ばまで飲んでローテーブルに置くと、早々にシャワーを浴びに浴室に向かうことにした。 「ごめん、シャワー浴びてくるから、着替え置いといてくれる? タオルは適当に使うから」 「わかった」    受け答えはしてくれるものの、軽口を叩いても甘えた感じに言い返してきて、仔犬みたいに人懐っこくまとわりついてきた頃の可愛いカズ君とは勝手が違う。あの頃はむくれたとしても柚希が頼って甘えたりしたらすぐに機嫌を直して抱き着いてきては嬉しそうにしていたけれど、180近い青年がそんなことするはずもなく、どう機嫌を取ってやればいいのか悩みどころだ。 (なんか難しいな……。大学受験ともなるとやっぱりストレスたまってる? 和哉と面と向かってしゃべる方が久しぶりだからか、なんかちょっとうまくかみ合わない)  今住んでいるアパートは追い炊きができない(お湯を入れて調節する)古めかしい物件だから、それに比べて天国のように広くて綺麗な実家の湯船につかりたかったがそうも言っていられない。今日は朝番のシフトだったから早朝から勤務で、湯舟まで使ったらもう、とろとろに心地よくて、ソファーで転寝でもしようものならそのまま眠ってしまう自信があった。  少し温めのシャワーは浴びるけれども今日はまたアパートに帰る予定なのだ。 (はあ、母さん早く帰ってきてくれないかな。和哉と何話していいのか分からないなんて初めてだよ)  小さな窓からまだ夕陽が射す時間帯にシャワーを浴びている間も柚希はあれこれと考えを巡らせる。 (敦哉さんの名前を出したら、機嫌悪くなった。敦哉さんが俺に気を使って俺が来るとき家を離れてくれてるのって三人でそう決めたのかな……。ここは敦哉さんの家なのにそういうのやっぱりおかしいよな。和哉も気を使って、なんとなく気持ちが落ち込むのかもしれない。どう和哉の気持ちをフォローすればいいんだろう)  実際のところは和哉が一番気にしている『柚希が大好きな、敦哉さんに似ている和哉』という部分をグサグサと刺激してくるのがストレスの元ともいえるのだけれど柚希はそんなこと知る由もないのだ。  あれこれ考えながら、実家にいた頃の癖で冷たいシャワーで浴室を冷ましてから柚希は脱衣所に戻ると、そこには何故か見慣れぬ服が置かれていた。  白地によく見れば薄墨ですっと細い線が細かくひかれたような織があるそれを広げてみたら、生地からの連想では思った通りだが意外なことに、それは浴衣だった。  柚希はその拍子に床に落ちた下着(これは母が買っておいたであろう柚希サイズの)を身に着け、海老茶の帯を掴んで浴衣を羽織ると脱衣所から和哉を呼びながら飛び出していった。 「和哉~、なんで浴衣がここにあんの?? 俺、着方分からないよ!

ともだちにシェアしよう!