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番外編 夏祭りの約束 3-2
「ただいま~! 柚希来てるのね!!」
「か、母さんただいま!」
ぐいっと和哉を押しのけて、柚希があられもない格好のまま玄関に逃げ去ってしまった。追いかけて後ろから羽交い絞めに腕の中に閉じ込めたかったが、その先には母がいる。すぐさま母が「柚希! 貴方なんて格好してるの!」と久々の再会に喜色を浮かべた声のまま窘めているのが聞こえてきた。
「はあっ」
その手を擦りに抜けていった兄に対し大きくため息をついて、母と浴衣の前身ごろを掻き合わせながら戻ってきた柚希のどこかほっとした表情を見てまた憎らしくも愛おしくも思う。
(でもいいんだ。今日はこれから……。僕が兄さんを独り占めできるんだ。すごいチャンスだろ? 夏祭りデート中にどんどん僕を異性として意識してもらわないと。兄さんはΩっていう意識を持ちたがらないから、こう無意識にでも可愛い反応をし続けてもらうために頑張らないと)
そのまま玄関隣りの仏間のように使われている部屋にいって、母子はお線香をたてて父や和哉の母の遺影に手を合わせた。
「柚希、浴衣着せてあげる」
「あ、うん。でもなんで浴衣?」
「あらやだ。今日、和くんと夏祭りに行く約束してたんでしょ?」
「祭り?」
着付けをするため母に言われるがまま、姿見の前に立つ柚希は寝耳に水といった顔のまま鏡越しに目線で和哉の姿を探してきたから、和哉はもう意地悪する必要もないと思い、凛と美しい浴衣姿に仕立て上げられていく兄を上機嫌で眺めたままにっこりと微笑んだ。
「やっぱり忘れてた。去年約束したよね? 大杜神社の夏祭りにいくって」
「あ……、そっか! そうだ。祭り! ごめん! 和哉!」
「約束したことは覚えてたんだ? さあ、兄さんに屋台で何奢ってもらおうかな?」
「何でも奢ってあげるから許して?」
「屋台ではほどほどに食べてきてよ。夏祭りから帰ってきたらすき焼き食べさせてあげるから、しっかりお肉食べなさいね」
「この暑さにすき焼き!!! どうして!!!」
「ふふふ。和くんのおじい様のお家からお中元に良いお肉を頂いたのよ」
「え……」
「一ノ瀬のじいちゃんちだよ」
「ああ。そうか。ありがたいね。沢山いただくよ」
柚希の顏が一瞬曇ったのち、こわばりが溶けたのは娘を溺愛していた母方の実家とは未だ持ってわだかまりが残ったままだからと知っているからだ。柚希はそれでなくとも実父の親族といい思い出を持っていない。
(兄さんはここに来るまで母さんと辛い思いをしてきたことを、まだ僕には話したがらない)
過去の話を和哉がねだると屈託ない柚希の笑顔が消えてしまう。だからいつか柚希が自分から和哉にそのことを話してくれるのを待っているのだ。
(父さんはきっと義母さんから聞かされてるはずなんだ。だけどそれを聞くのはなんだか悔しい……。いつか僕が兄さんを支えられるようになったら、きっと話してくれるはず……)
「できたわ」
柚希が振り返って照れたような笑顔を向けながら、真っ先に浴衣姿を和哉に向かって披露してくれたから今はもう色々考えるのは良そうと思った。
「浴衣は似合うのか似合わないのかとかよくわからないよな?」
「そんなことないよ。すごく綺麗だよ?」
大人びた声色をわざと出して兄を素直に褒めると、柚希はまた照れてわざと袖をばさばささせながら頭を掻いた。
「前髪も少し後ろに流そうかしら?」
桃乃が背伸びしながら柚希の未だ濡れた前髪を後ろに撫ぜ付けたら、二人の姿越しに見える柚希の父の遺影が目に止まる。
「兄さん、その髪型すると……。似てるんだね? おじさんに」
「ああ、父さんに?」
「……。そうね。すごく似てるわ。この浴衣はね。お父様のものだったの。少し柚希には大きそうだったから丈を詰めて……。でもそうしていると本当にそっくりね」
そういって桃乃は少しだけ透けるような色白の目元を朱に染めてながら愛おし気に息子の姿を見上げてきた。番で会ったらきっと、桃乃のΩの香りが匂い立つ瞬間だったのだろうと思うほど、この一時期だけはうっとりと我が子を見上げている。きっと柚希の姿にかつて年の差を乗り000えて結ばれた、最愛の夫の姿を重ねているのだろう。
そう頭では分かっているし、桃乃のことも大好きなのに。
和哉の中の狼は自分の獲物を横取りされそうな気持ちになって焦れて牙を剥く。自分のテリトリーに久々に柚希が帰ってきたから、もう柚希が自分のもののような感覚になっていてこればかりは本能が先に反応するのだから止められようもない。
わざとそんな自分の意識を反らすように柚希の父の遺影と柚希を見比べてみた。
(おじさんの遺影……。本人から義母さんが貰ったっていう、若い頃の写真を一枚きりしか持ち出せなかったっていうから。兄さんに余計に似てるな)
雰囲気までもこのまま柚希に似ているのだとしたら、父はなんとも魅力的で目の離せないような柔和な美男だったということになる。この遺影の他に持ち出せたものは愛用していたこの紬の浴衣一枚きり。病を得てからは数年、桃乃が献身的な介護をし続け、最後は頬もすっかりこけ病み衰えた姿の父しか柚希も幼い頃の記憶に父の姿はあまり残っていないのだそうだ。
「お父様を、思い出してしまうわね」
そう言って柚希の両袖をきゅっと握ったまま、桃乃は後ろでひとつにくくった髪の間に見える噛み痕を晒して項垂れたから、柚希はそんな母親の薄い肩を引き寄せて抱きしめる。
「ごめんね……。母さん。いつも傍にいてあげられなくて」
深い悲しみを宿した柚希の言葉に、和哉は柚希との逢瀬に浮かれていた胸を撃ち抜かれ息をのんだ。
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