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第9話 惹かれる 3/9

「時間になってもお越しならないのでお迎えにあがりました」 「ああ。今行く」 「旦那様、お召し物が汚れておいでです」 恵美子さんは救急箱を仕舞うと急いで屋敷の方に伊織さんと向かって行った。 僕と伊地知さんがそこには残された。 「お怪我をされたのですか?」 「……ちょっと転んでしまって」 「そうですか。気をつけてください。社長はこれから大事な商談があります」 「はい」 「お忙しい社長の手を煩わさないのもあなたの役目ですよ」 その視線は冷たく、僕を突き放すかのようだ。 「すいません」 「お忙しいのに時間を取って頂いたことにもっと感謝しなさい」 理不尽な内容に腹がたった。 「あなたはご自分の立場が分かっておられるのですか? いくら奥様を手に入れるためとはいえ、あなたの父上の会社を買収し、その借金まで肩代わりしたのです。それがいくらかかったかご存知ですか?」 「いえ……私は何も……」 「だからそのように安穏としていられるのです。もっと真剣に取り組んでください」 そう言い放つと伊地知さんは屋敷の方へ向かって行った。 僕は名ばかりの『妻』なのだと再確認させられた。ほんの少し近づいた距離に戸惑っていたけど、僕は借金や会社のためにここに連れてこられたのだ。 距離なんて縮まなくていい。1年後の結婚式に僕はいない。 伊地知さんと会うと緊張する。伊織さんと会うのも緊張する。同じ緊張でも伊織さんとは……心地よいと言うか和むと言うか、伊地知さんとの緊張とは少し違って感じる。

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