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とある保健医の災難

 私は今、聞いてはいけないものを聞かされているんじゃないかと頭を抱えている。 「あ! や、やめてっ、島崎くん!」 「うるせー!さっさと尻を出せ!」  カーテンで仕切られた奥の簡易ベッドのスペースで、先程やって来た二人の学生のただならぬ気配に、冷や汗が止まらない。 「い、いや! 見ちゃダメェ!!」 「見なきゃ分かんねーだろーが!」  此処は私の職場。大学保健センターだ。学生達は『保健室』と呼んでいるが、私は養護教諭ではない。小、中、高の保健の先生とは違う。看護師の資格を持つ、列記とした医療従事者である。数年前までこの大学の付属病院で従事し、その後このセンターへと職場を移した。  殺伐とした医療現場とは違い、此処は実に長閑で平和だ。若い学生達の健康を預かるという意味では責任もあるが、命の遣り取りのような重苦しい現場ではない。  私はこの職場が終の天職だと感じていた。  彼等が入学してくるまでは………。 「ああぁ………!……ひっ、い、いたいぃ…!」 「チッ! ガマンしろ」  もう止めてくれ!!  私の神聖な職場で、君らはいったいナニを行っているんだ!!!  3回生の島崎夏彦と佐倉波留。彼らは入学早々から今日まで、この保健室に度々やって来る、厄介な常連だ。  最初の訪問は3年前の春。教授棟へ赴いていた私が根城にしているこの保健室へ戻ると、鍵の掛かった扉の前に、荷物を抱えるように佐倉くんを担いだ島崎くんが立っていた。  毎年この時期は、慣れない環境に具合を悪くする生徒が出るのはよくある事で、その時も貧血か何かで倒れた友人を連れてきたのだろうと、急いで鍵を開け部屋へと招いた。  ところがどっこい。抱えられてた佐倉くんは、ただ尻もちをついただけで他に怪我もなく、本人は申し訳無さそうに「大丈夫です。平気です」と半ベソ気味に訴えていた。  けれど連れて来た方の島崎くんは「手のひらを擦りむいてる」と、私に消毒をしてくれと威圧感たっぷりに訴えてきた。  反論するのも面倒臭……いや、恐ろしくて、ちょびっと血の滲んだ佐倉くんの手当をしてやり、納得した様子の島崎くんは来た時同様にまた佐倉くんを担いで帰ってくれた。  それ以来、この保健室は彼ら二人……いや、佐倉くんの専用救護室のように使われている。……主に島崎くんの采配で。  今朝もまた、朝イチで駆け込んできた島崎くんは、擦りむいて薄っすらと血の滲んだ佐倉くんの肘の手当を要求してきた。私もこの3年で嫌と言うほど学んだ。島崎くんには逆らっちゃいけない、と。  忘れもしない2年前の7月。梅雨の末期の蒸し暑い日だった。  「昼飯を残した」なんてふざけた理由で、いつものように佐倉くんを担いで現れた島崎くんを、呆れながら適当にあしらって追い出した事があった。  見たところ佐倉くんは元気そうだったし、本人も相変わらず恐縮して「大丈夫です」と言っていた。まったく島崎くんの過保護にも困ったもんだと苦笑が漏れた。  ところが、それから一週間も経たないうちに私は学長室に呼び出され、危うく今の職を失うことになりかけた。  云わく、保健室の保健医は職務怠慢だと、過半数を超える学生達の嘆願書が事務局経由で届けられ、事態を重く見た学校側は調査に乗り出したと言うのだ。  私が過保護過ぎる島崎くんに呆れ、それに付き合わされてる佐倉くんに同情しながらも追い帰したあの日、彼は帰宅途中で腹痛を訴え嘔吐し病院へと担ぎ込まれた。もちろん島崎くんの手によって。  佐倉くんは、食中毒に罹ったらしい。気の毒に。  だが、それがどうして私の責任へと転嫁してきたのか。憤慨気味にそれを問うと、審問員の一人が渋面を滲ませ答えてくれた。 『実はあの日、学食で提供された定食のポテトサラダから、佐倉くんから検出された食中毒菌が発見されたのだよ』  …………は?  審問員は続けた。 『君がもっと学生の言葉を真剣に聞いていたら、被患者を増やさずに済んでいたかもしれないんだ』   そ、……そんな。  青褪める私に、学長は厳しい言葉を投げ掛けた。 『幸い、島崎夏彦という学生から直ぐに学校へ連絡が入り、原因究明が素早く行われたお陰で、最小限に被害の拡大は防げた。だが彼が言うには、もっと水際で食い止める事も出来たそうじゃないか。その佐倉という学生は、いち早く不調を訴え、保健室で君が診ていたと聞いたぞ。その学生を、大した問診もせず追い出したそうだね。それに関して、何か反論があるなら言ってみなさい』    一歩間違えば、大学は食中毒を出したとマスコミの槍玉に上げられ、世間から白い目で見られる結果になっていたかもしれない。学生を預けるご家族からも訴えられて、莫大な慰謝料請求が行われていたとしてもおかしくない。  今回は被害にあった学生も少なく済、症状も比較的軽度の者ばかり。保健所の監査と一ヶ月の学生食堂の業務停止。ささやかながら被害にあった学生へのお見舞いとして、一人数千円の図書カードを配る事で和解し事なきを得た。  あの時、私が佐倉くんの些細な不調を見逃さず、もっと彼に詳しい問診をしていたら、更に水際での対策が進んだはずだ。そう大学側は言っている。  学長の言葉は続く。 『食中毒だけに関して言えば、君にその責任は無いかもしれない。……が、これだけの学生が保健医に対し抗議を寄せている、という事が問題なのだ』  バサッと机に投げ出された紙の山。  誰がどんな目的で集めたのか、それは私に対する苦情の声明達であろう。  私は震える手でその紙の山から一枚を持ち上げ、そこに記された内容に目を通した。  そこには署名をした学生達の名前がぎっしりと並び、口上文にはこう記されていた。 『我々はこの度、佐倉波瑠さんへの初期診療が適切に行われなかった件について、大学保健センター長西村浩三氏、及び、佐倉さんへの初動診療を行った保健医に対し抗議すると共に、今後彼等、主に島崎夏彦氏の要求する、佐倉波瑠さんへの適切な処置治療を、一切の疑念を抱く事なく行われる事を望む』  そしてその差出人代表欄には、見た事も聞いた事もない団体名がまたぞろずらりと並んでいた。  “島崎夏彦くんと佐倉波瑠くんを見守る会”  “島×波瑠を愛でる会”  “HARUたん♡がんばれ同好会”  “島崎夏彦の幸福論を語る会”  “噂のふたり研究会”  な……んだ、これ。  言い知れぬ恐怖で震えながら、私は審問員達に訊ねた。 「こ……、この、聞いた事もない団体は何なんです? それに島崎夏彦と佐倉波瑠とは、一体何者なんですか!?」  審問員の一人、真っ赤なフレームのざます眼鏡を掛けた、人間科学部で教鞭をとる立川女史がガタリと立ち上がり、鼻息荒く熱弁を奮った。 「貴方、ご存知無いの!? 島崎夏彦と佐倉波瑠が、この学内で如何に注目を集めている学生か、知らないなんて嘆かわしい!!」  は、はい……? 「あの二人は、わたくしに取ってこれ以上ない重要な研究対象です!!まさに人類学的にも社会学的にも、そして心理学的にも興味を唆られる存在ですのよ!!」  彼女の熱意に圧倒され呆気に取られる私に、隣に座ったもう一人、法学部教授の石牧氏も大きく頷きこう語った。 「島崎夏彦。彼は我が学部の優秀な生徒の一人です。島崎くんの観察眼は目を見張るものがある。試験の結果も上々。レポートは特Aを取る実力です。人望も厚く友人も多い。いずれ大成するのは間違いないでしょう。その彼が、常に注視しているのが佐倉くんという同期生だ。……意味は、分かるね」  …………いや、分からんて。  だが私は悟った。  私は決して敵に回してはいけない相手を怒らせてしまったのだ……と。  何て恐ろしい子だ。島崎夏彦!! 「こ、今後は学生の信頼を裏切る様な事は、決して致しません。この度は大変、申し訳御座いませんでした!」  私は学長及び審問員の教授方に深々と腰を折り、3ヶ月の減俸と抗議文書の内容を全て呑む形で懲戒免職を免れ、この騒動は幕を閉じた。    こうして私の長閑で平和な毎日は終わりを告げ、戦々恐々とした日々を送る事になったのだ。  それもこれも、あの島崎夏彦を怒らせたせい。そして、彼が唯一怒りを露わにするのが佐倉波瑠に関する事。  以来私は、島崎くんには逆らわないと決めた。  連れ込まれた佐倉くんが何と言おうと、私に取っての絶対は島崎くんなのだ。例え医療行為が必要ないと感じても、それをそのまま真に受けてはいけない。ささくれだろうが虫刺されだろうが、私は看護師だ。患者に真摯に向き合おう。  …………と、そう心に誓ったのだが。  肘の手当てが終わった後、奥の簡易ベッドへ佐倉くんを投げ置いた島崎くんは、私に「湿布、一枚貰えますか」とそれを受け取りカーテンを閉めた。   ………で、今こうして頭を抱え込む事態に陥ってる。 「おいっ、じっとしてろよ!もっと痛い思いしてぇのかよ!!」 「やっ、いや! お願いっ島崎くん!やめてよ! もぅ…やだぁ!!」  相変わらずカーテンの向こう側では、嫌がる佐倉くんに文句をつける島崎くんの怒声が聞こえてくる。  ぐすぐす泣き始めた佐倉くんの声に、流石の私も居ても立っても居られなくなった。 「な…、なぁ、島崎くん? 佐倉くんは大丈夫なのかい? そ、その…、何なら私が代わりに診て……」  湿布を持って行ったのだから、きっとそれを何処かに貼る行為を行っているはずなんだ。そ、そう。これは健全な医療行為。ならば看護師である私の役目。  そう思いカーテンの向こうの島崎くんに声を掛けた。………が。 「あ"あ"?」  ス……ッと薄黄色のカーテンが揺れ、5センチ程の隙間から、恐ろしい眼力でこちらを睨む島崎くんと目が合った。  ヒイィィィ!!! 怖っ!!! 「………っ!! あ! い、いや!すまないね!!余計な事だったみたいだね!」 「先生さぁ。俺はコイツの猿みてぇに赤くなった尻を、他の奴に見せるなんて極悪な事、したくねぇんだわ。そんなの胸くそ悪いだろ? もうちょっとで終わるから、悪いけども少し待って」 「あ、ああ、そうだね! す、好きなだけ使ってくれていいからっ!!」  ホント悪ぃな。と、5センチの隙間を閉じた島崎くんの背後に、ちらりと必死にずり下がりかけたズボンを掴む佐倉くんが映った。  いや……。私は何も見ていない。見てないったら見てないぞ!!  閉ざされたカーテンの向こうで、簡易ベッドのギシギシと揺れる音が響く。その音に被せる様に二人の学生の攻防が轟いている。 「いい加減にしろよ! 湿布貼るだけだろーが! ほら、さっさと尻を出せって!!」 「ぅわっ、やだぁーーっ!! うぅ……うぇぇえぇぇん」  すまないね……佐倉くん。  これに懲りたら、もう島崎くんの前で転んだりしちゃダメだよ。まぁ、無理だろうけど。  私はデスクの抽斗からそっと耳栓を取り出し装着した。  そうだ。お茶でも淹れようかな。  冷房の効いた涼しい室内で熱いお茶をいただく。  ふと窓の外が明るくなった。この数日降り続いた雨が漸く上がったらしい。  ああ……。今日は暑くなりそうだ。  雨に濡れた緑樹たちが、陽の光を受けてキラキラと輝いている。  私はその美しい景色を眺めながら、熱いお茶を啜った(現実逃避した)。  

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