29 / 131

第29話

その翌朝のこと。 「水樹の匂いがする」 極々普段通りの会話の最中、突然首筋に顔を寄せてきた水無瀬はそう呟いた。 水無瀬の顔はつくづく心臓に悪い。 龍樹が真っ赤になって反射的に飛び退いたので、水無瀬は少し意地の悪い顔でくすりと笑った。 「そんなにビックリしなくてもいいじゃない」 「ビックリするだろ…」 はああ、と大きく息を吐き出した龍樹は火照った顔をなんとかしたくて手の甲を頬に押し当てた。 自分はどちらかというと表情豊かではないと思っていたが、水無瀬の前ではまるで当てはまらない。 意思に反してすぐに赤くなる顔は、赤面症のようだとさえ思う。 「そんなにフェロモン移るほど何してたのかな」 「なんもねぇよ」 「ふぅん?」 わかっているくせに。 触れることすら容易ではないことくらい。 と、思って、昨日の水樹の怯えた目を思い出す。 噛み跡を見つけて、なにを思ったかそこに触れてみたいと思ってしまって。抗うことなく触れたら、あんなに驚いて怯えて。 普段から兄弟間のスキンシップは多い方だと思う。あんな風に拒絶されたのは初めてだった。だからこそどうしていいのかわからなくて、言葉も出てこなくて。 龍樹は頭を振って、水樹の残像を追いやった。 「…なんだよ、嫉妬か?」 「んー?うん、そうね、ちょっと妬けるかな」 嫉妬の影など微塵も見せずに、水無瀬はそう言った。 それきり会話そのものが途絶えてしまって、龍樹は俯いて靄のかかった思考回路に沈み込んでしまった。 (嫉妬してるのは、俺の方だ) 名実共に水無瀬のものになった兄に。 元々は、自分がこの美しい人の隣にいたのに。 たまに考える。 もしも自分がΩだったら、噛んでくれたのだろうかと。

ともだちにシェアしよう!