30 / 131

第30話

それからしばらく穏やかな日々は続いた。 もともと接点のない先生だ。 落合が積極的に動いていたからこそ頻繁に顔を合わせていたものの、第3図書室での一件からぱたりとその気配はなく、廊下ですれ違うことすらなく、季節は梅雨が明けようとしていた。 龍樹は心の片隅で落合の存在を気にはしていたものの、戻ってきた日常と迫ってくる大学受験を前に、その懸念を追いやることは容易だった。 一つ変わったのは、あれから水樹の部屋に入り浸るようになったことか。 あの時不用意に触れたせいで水樹との関係に亀裂が入ったりはしないかと一抹の不安を覚えたものの、それは無用な心配だった。 水樹は寧ろ龍樹に頼られることが嬉しい様子で、いつも笑顔で受け入れてくれる。 必然的に水無瀬と過ごす時間も増えて、龍樹はそれなりに満足した生活を送っていた。 久しぶりに図書室にこもっていた龍樹は、ついさっき出された英語の課題に取り組んでいた。 というのも、つい昨日から水樹が発情期を迎えたので、水樹の部屋に行くわけにいかなかったからだ。 いつもの窓際一番手前、新書コーナーの一番近くの席。 夏が近付いて夕方でも日当たりがよく、窓を開けていれば風も通るため、湿気のある時期にしては快適だ。 すると、風に乗ってふわりと仄かに甘い香りが漂う。 反射的に視線を上げると、落合の大きな瞳と視線がかち合った。 「…たつきくん」 ほんの2ヶ月程度聞かなかっただけのその声は微かに震えていた。 少しの間気まずい沈黙が続いた。 けれど視線を逸せない。 数回、言葉に詰まった落合が口を開閉したところで、龍樹は漸く視線を問題集に戻した。 無視されたと思ったのか、落合の顔が少し落胆したのが目の端で捉えられたが、それこそ無視した。

ともだちにシェアしよう!