82 / 131
第82話
「あれ先生帰るの?お祭り行かないの?」
重苦しい気持ちのまま朝食をいただき、身支度をしている落合にそう声をかけてきたのは水樹だった。
「お祭り…?」
「今夜あるんだよ近所で。お祭りのために泊まっていったのかと思ってた」
水樹は言いながらちらりと落合の横にいる龍樹を見た。なんで言ってないの、と小声で肘鉄を入れている。
お祭り。
それはとても魅力的な響きだ。
龍樹の地元で、龍樹とお祭り。花火もあるのかな、なんて普段の落合なら思うところだが、いかんせん今は気分が落ち込んでいて。
お祭りのことを教えてくれなかったのは自分と行く気がないからなんじゃないかと悲観してしまうのだった。
「ね、先生折角来たんだしさ、なんなら俺の浴衣貸すよ」
「え!?わ、悪いよ!水樹くんが着なよ!」
「いいよ別に4枚くらいあるし」
「4!?」
浴衣なんて、そんなに安いものでもないだろうに。質を選ばなければ安いものもあるだろうが、そんな安物を身につけるとは思えなかった。
龍樹の実家に来てから色々とカルチャーショックが多い。
「俺これから水無瀬迎えに行くし、みんなで行こうよ」
「お、俺浴衣なんて着れないよ…」
水樹が貸してくれた浴衣を胸に抱えて、落合は途方に暮れた。
なんせ浴衣なんて着る機会がなかった。大学の卒業旅行で友人と温泉旅行に行った時に旅館で何となく着ただけで、ちゃんとした着方なんてわからない。
龍樹は箪笥から自分の浴衣を引っ張り出すと、その場にいた水無瀬に押し付けて、不思議そうに落合を見た。
「そんなに落ち込まなくても大丈夫ですよ先生、僕もちゃんとなんて自分じゃ着れないし、龍樹に着付けてもらったらいいじゃないですか」
「お前は去年も自分じゃ無理って投げたろ」
「年に1回のお祭りで和服の着方なんていくら僕でも覚えらんないよ」
合流したばかりの美貌の青年はそう言って肩を竦めた。
「それに僕別に浴衣じゃなくていいって言ってるのに、着せたがるのは君たちじゃない」
「たちじゃない、水樹だろ」
「水樹は龍樹がって言ってたよ?」
「あいつ…」
この場にいない兄に向かって小さな文句をこぼした龍樹をみて少しだけ笑った水無瀬は、そのまま浴衣を抱えてひらひら手を振って部屋を後にした。
煌びやかな見た目とは裏腹に随分とさっぱりした言動が不思議な感じ。
落合が初めて水無瀬とまともに会話した印象はこれだった。
ともだちにシェアしよう!