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第89話
女の子たちの話によると、水無瀬と思しき浴衣の男性はつい今しがたすぐそこの射的の屋台の辺りで見かけたそうだ。
しかし一人ではなくて、20代半ばぐらいの男性数人と一緒だったと。
男たちはかなり酔っている様子で、由比ヶ浜の方面に歩いて行ったそうだ。
女の子たちは出会いでも探しにきていたのか、龍樹や落合も一緒にいるところを確認すると、急にしなを作って水樹をこの後の花火に誘っていたが、
「悪いけど俺らみんなΩだから不能だよ」
という水樹の大胆な嘘半分でさっさと逃げて行った。不能ではない。龍樹に至ってはΩですらない。
「龍樹、ちょっと下駄ここで脱いでいくから持って帰って」
「待て、お前一人で行く気か?俺も…」
龍樹の言葉が最後まで紡がれることはなかった。ギッと鋭い視線で水樹が睨め付けたから。
龍樹はまだ水樹が何も言っていないのに視線だけで怯んでしまう。幼い頃からの力関係が如実に現れたのを見た。
「お前いい加減にしろよ!先生歩けないのにこんな所に一人で放っておく気か!いつまでも優先順位間違えるな!」
騒がしい祭りの場ではさして大きな声に感じなかったものの、かなりの怒声だったはずだ。
龍樹も流石に驚いた様子で水樹をじっと見つめている。
水樹は一つ大げさに溜息を吐いて見せると、下駄を脱ぎ捨てて端に揃えて置いた。
そして怒りの冷めた瞳でじっと龍樹を見つめると、静かにこう続けた。
「…もういいんだよ龍樹…俺が1番じゃなくていい、俺に囚われてなくていいんだよ…俺もう、大丈夫だから…」
龍樹とよく似た容貌が僅かに歪んだ。
声も僅かに震えていた。
そして告げた事実に、落合は目を見開いた。
「ごめん龍樹、あの時、水無瀬と番ったのは事故なんかじゃない。俺が自分で首輪外したんだよ」
ずっと水無瀬が好きだった。
そう言って泣いていた水樹はもうそこにはいない。
「俺は、もう大丈夫だよ。…今までありがとう」
目の前の水樹は、強い瞳でそう言った。
水無瀬くん、水樹くんは独りなんかじゃない。君を心から愛しているから、独りなんかじゃないよ。
水樹は裸足のままその場から走り出し、そしてすぐに人混みに消えて見えなくなった。
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