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 X県の夜は寒い。最近は特に底冷えするし、たまに吐く息が白い時もある。寒がりの俺などは、ツンと鼻に突き抜ける冷たさでアイスクリーム頭痛を起こすことがあるほどだ。  この時間ともなれば、繁華街であるここ一帯はビルにやたらとネオンが灯り、ちょっと高い建物はキレイにライトアップされ街の景観に華を添える。  と、俺は通りを行き交う人々の様子に妙な違和感を覚えた。 「なあ、やけに人が多くない?」  思わず確認すると、鉄生も微妙に困惑した様子で小さく頷いてみせる。  時間的に会社員やら塾・部活帰り、はたまた夜遊びをする若者等で人通りが多いのは当たり前だが、それにしても今日はやけに空気がざわついているような気がした。  周囲を気にしつつもとりあえず歩き始めるが、妙なことに車道の車の列がほとんど動いていない。 「事故かねェ」  鉄生が憂鬱そうに呟いた。ほとんど同時に、俺は進行方向の数十メートル先辺りにかなりの人だかりができていることに気付く。歩道一杯に溜まった人の群れの間からは、微かに赤いランプの光が漏れているようだった。  一体何があったのかと思うより早く、ガラスを引っかいたような甲高い叫び声が空気をびりびりと震わせた。 「えっ」  その狂気じみた声の調子に気圧され、俺は無意識に足を止めてしまう。それは鉄生も同じようだった。 「何……」  びびって後ずさる俺とは対照的に鉄生は前方に数歩進み、無言で上方に顔を向ける。つられて同じ方向を見上げた俺の目に飛び込んできたのは、地上×階建てのマンションの中ほどにあるベランダから今にも身を投げ出そうとしている若い女の姿だった。  暗い上に遠くて見づらいものの、この寒いのにほとんど下着同然の格好をしているのが何となく分かる。  ベランダの柵に乗り上げた状態で、髪を振り乱して室内に向かって何やらヒステリックに喚き散らしているようだ。  女の手元で銀色の物がぎらぎらと光を反射している。おそらく刃物だろう。  建物の外から拡声器を持った警察官が説得に当たっているらしいが、事態は一向に変わらない。 『邪魔なんだよ!! どっか行ってよぉ!! あんたも! あんたらもだぁっ!!』  マイクを通した警察官の言葉がうにゃうにゃとしか伝わってこないのに対して、女の声は不思議とこちらまではっきりと聞こえて来た。  あんたら、とはマンションの下に集まっている野次馬やら立ち往生している通行人のことだろうか。  一際大きい金切り声が夜の街に響く。 『それとも一緒に死んでくれるって言うの!?』  瞬間、ざわついていた周囲がしんと静まった。  異様な場の空気に呑まれていた俺は、ここにきてようやく大方の事態を把握した。あの女、自殺志願者だ。それも、かなり迷惑な部類の。 「……うわぁ、マジか」  俺は思い切りげんなりした。楽しく遊んだ帰りにこんな現場に遭遇するなんて、何だか今日一日にケチがついたような気分になった。  向こうから来た数人連れのリーマンが、「別れ話がどうのだって」「前にも同じような騒ぎ起こしてるらしいわ」等とコソコソ言い合いながら俺達の傍を早足に通り過ぎて行く。  その様子を見て、俺はあるコトに思い当たった。自殺志願の女が騒いでいるマンションのすぐ足元には駅まで通じている地下道への階段があるのだが、建物の近辺を警察が封鎖しているためにそこを通ることができなくなっているようなのだ。おそらく、あのリーマン達もそのために引き返してきたのだろう。  また、同様の理由でマンションの駐車場にも車が出入りできないので、車道が滞っているというわけだ。  俺も鉄生も、帰りは地下道から駅に抜けて電車を足に使うのが常だった。ここからだとそれが一番面倒の無い帰り方で、地下が通れないとなると駅に行くにはかなりの回り道を余儀なくされる。  所でコイツはこのやっかいな事実に気付いているのだろうか? 「なあ、鉄生」  肩を叩くが、鉄生は空中を見上げた姿勢のまま微動だにしない。完全に心ここにあらずといった風だ。  まあ、自分もほんの少し前までそんな感じだったので気持ちはわかる。こんな現場に出くわすことなんてめったに無いし、いくら普段は肝の据わっている鉄生といえど、気が動転するのも無理も無いと思った。  しかし、このままここで立ち止まっているわけにはいかない。電車の時間だってあるし、何より寒いし。 「鉄生ったら。そこの階段通れないみたいだし、別の道で帰ろう」 「……ん」  声を潜めて話しかけるも、反応は薄い。 「聞いてる? 急がないと電車なくなっちゃうって」 「あ、ああ。そうだよな」  せっつくように腕を引くと、ようやく鉄生はこちらを向いて頷いた。そして、まるで講義中の居眠りから覚めたような、ばつの悪い表情で額に手を当て呟く。 「悪い、ちっとばかし呆けてたわ」 「いいよ、もう行こう」  未だに物々しい雰囲気の現場を一瞥し、俺と鉄生はUターンして歩き始めた。  ここから駅まで歩くと××分ぐらいで、確か電車は×時に×本だから多分まだ間に合うはず。頭の中でそんなことを考えながら、隣を歩いているであろう鉄生に話しかける。 「なー、明日の講義って……」  いない。思わず振り向くと、なんと鉄生は先ほどまで居た位置からほとんど動いていなかった。俺は慌てて今歩いた道を駆け戻る。 「ちょ、どうしたんだよもう!」  つい声を荒げてしまうが、鉄生は悪びれた様子も無く、再び件のマンションの方に体を向ける。そうして、こんなことを言い始めた。 「うん、いや、分かってるぜ。分かってるんだが……でもあれ、あんな言い方したらよ、」 「言い方?」  反射的に聞き返すと、鉄生の指先がふわりと持ち上がり、ある一点をぴたりと指差した。 「ほら、アレ。聞こえるよな? ひでーって、さすがに」  見れば、女のいる部屋の隣室側のベランダに警官と思わしき男が回りこんでおり、そこから説得を行っているらしい。……が、あくまで身振り等で判断しているだけで、その内容などは俺にはよく分からない。 「ごめん、俺よく聞こえない」 「……聞こえるだろ」  鉄生の口調に、微かな苛立ちが混じる。しかし、どんなに耳を澄ましても時折聞こえてくるのは自殺志願女の発するキンキン声の残響だけだ。  無言になる俺を尻目に、鉄生は言葉を続ける。 「あんなん、仮にも死のうとしてる人間に言っていい言葉じゃねーわ。どっちかっていうと煽ってるっつーか、あれじゃ多分」  鉄生はそこまで言って眉を顰めると、唐突に口を噤んだ。  俺は内心頭を捻った。俺の耳が悪いのか? それとも、鉄生の耳がいいのか? いや、それよりも「あれじゃ多分」何なんだというのだろうか。  しばし、二人とも一言も発さないままで時間が過ぎる。そう、こうしている間にも時間は刻一刻と過ぎているのだ。 「鉄生! ヤバい、電車の時間無くなるって」  俺の言葉に鉄生は一瞬我に返ったような素振りを見せるが、その表情の端々にはまだ逡巡の気持ちが滲んでいるようだった。 「でも……」 「でもじゃないって、走ろう」  俺は何事かを言いよどむ鉄生の手を取り、半ば強引にこの場を離れようとするが、それでも鉄生の足取りは重たい。  ここまでくると、この特異なシチュエーションが彼の心のどこかしらに強く訴えかけているということに、おおよそ察しはついていた。  ただでさえ鉄生は妙に正義感が強い男だ。普段からバカ正直で、やや潔癖さを感じるほどに曲がったことを嫌う。……斜に構えた性格の俺からすると、たまに少し、ほんの少し煩く感じるくらいに。  それにしても、彼がこんな風に自分達と全く関わりあいの無い騒ぎに向かっていくようなことは、今まで余り無かったような気がするが。  移動を渋る鉄生を穏便に説得するため、俺はこんな言葉をかけた。 「気持ちは分かるけどさ、多分俺達にできることは無いんだから」  それは紛れも無い事実だ。第一、俺達は警察はおろか野次馬達よりもマンションから離れた位置にいる。  しかし、だからこそ鉄生をムッとさせてしまったのかもしれない。 「んだよ、分かるって」 「心配なんだろ。だけどさ、だからってどうにもできないじゃん。関係ないし」 「そんなこと、オレこそ分かってるわ。でも、」 「見てるだけなら、そこらの野次馬と一緒だって……ちょっと、もう電車あと二本しか無いよっ」  売り言葉に買い言葉、ちょっとした押し問答から腕の引っ張り合いが始まってしまう。  ひょっとすると、俺も鉄生もぴりついた場の空気に多少なりとも影響されていたのかもしれない。 「んなに電車の時間が大事かよ」 「そりゃそーだよ、帰れなくなるからね!」  徐々に夜風も強まる中、街灯の下で揉めている俺達に、通行人(元野次馬)が不審げな視線を投げかけては早足に通り過ぎて行く。  あれ、おかしいな、何でこんなコトになっているんだろう……などと俺が頭の片隅で疑問に思い始めた頃、マンションの方から唐突にいくつもの叫び声が上がった。  少し遅れて、耳慣れない……敢えて例えるとしたら、何か薄い木の板に大きな石を落としたような音が響いた。 「……っあ」  低い声を漏らした鉄生が、マンションのベランダに視線を戻す。そこにはもう女の姿は無い。  ――あ、マジで飛んだんだ。  ぼんやりとそう思ったのを最後に、俺の思考は停止した。

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