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 気付けば、俺と鉄生は終電に揺られていた。電車の時間にはどうにか間に合ったようだった。  車内の明かりを反射する窓には、全身で座席にもたれかかり、ぐったりと疲れた顔をした自分達の姿が映っている。  マンションから飛び降りた女は死ななかった。どうやら風にあおられて隣の建物の屋根に落ちたらしい。それでも二、三階分は高さがあったと思うが、直接地面に叩きつけられるよりはマシだったのだろう。少なくとも救急車で運ばれて行く時点ではイタイだの何だのと割に元気そうにしていたような気がする。 「なあ、鉄生」  がらがらに空いた車内で、沈黙の醸し出す重たい空気に耐えかねた俺は、特に深く考えずに口を開いた。 「あの時さ、警官、どんなコト言ってたの?」  言ってしまってから、ひょっとしたら余計なことを聞いたかもしれない、という後悔に襲われる。しかし、一旦口に出してしまったものはどうしようもない。 「んだよ。マジで聞こえてなかったんか」 「……うん」  少々憮然とした表情で、鉄生は深く息を吐いた。 「まー、アレだ。飛べるもんなら飛んでみろとか、ホントに死にたい人間はこんなことするわけがねーとか、人様に迷惑かけるなとか……」  結果的にその警官は自殺志願者を煽って飛び降りさせてしまったので、こう言うのも何だが、正直一番最後のには少し同意できる、と思った。  ホントに、どうして一日の終わりに赤の他人の起こした騒ぎのせいでこんなに消耗しなくちゃいけないんだろうか。  ――自殺なんて、心の弱い人間のするコトだ。死にたきゃ一人で勝手に死ねばいい。そうすりゃ誰にも邪魔されず、お望みどおりすぐ死ねただろうに。そうしなかったってことは、あの女は所詮ただの構ってちゃんだったってことだ。止めて欲しかったか、ただ単に目立ちたかったか、それとも恋人か誰かの気を引きたかったか。いずれにしても、俺にとっては迷惑も迷惑、大迷惑だ。  と、電車が大きく揺れた拍子に、体ががくんと前面につんのめる。疲れのせいか、知らず知らずのうちに俺は舟をこいでいたらしい。  俺は慌てて体勢を立て直し、床に落ちかかっている鞄を引き寄せる。 「っと、ごめん、寝落ちしかかって……」  照れ隠しに言い訳をしながら隣に座る鉄生の方を向くと、ちょうど目が合った。 「あっ、もしかしてヨダレ出てた?」  冗談めかして口元に手をやるが、鉄生は何も言わない。もちろんヨダレも出ていない。  鉄生は無言のまま、じっと俺の顔を見つめるばかりだ。 「え、何だよ……」  一瞬、適当に笑ってこの場を流してしまおうかと思った。でも、できなかった。その表情が、余りに普段の彼からかけ離れていたからだ。  訝しげなような、驚いたような、呆れたような、躊躇うような、何か決定的な感情を顔の皮の一枚下に包み隠しているような……近い例えはいくつも思い浮かぶのに、それでいて正体が見えない。  例えようも無く奇妙な空気の中、お互い無言のままで時が過ぎる。先に目をそらしたのは、俺の方だった。  ――おかしい。何かが変だ。でも何故?  話の途中で居眠りしたから? でも、鉄生に怒っている様子は無いし、それならそうと言うだろう。  ――あれ、俺、何か変なことした? いや、待てよ、違う、そうじゃない。  ……言った?  じわり、と頭の中に冷たい感覚が広がってゆく。  確かに、俺には頭の中で考えていることを無意識に口に出してしまうクセがある。それも、これまでの経験から、深く考え込んでいればいる程ついやってしまうという自覚があった。  無論、普段人と一緒にいる時などは、不用意にブツブツ独り言を言ってキモがられないように重々気をつけている。でも、もし疲れてうとうととしていたらどうだろう? そう、ほんのついさっきみたいに。  突然、車内アナウンスがもうすぐ俺が下車する駅だと告げる。  ――俺、さっき何か言った? どんなこと言った?  たったそれだけのことを確認できないうちに、電車は徐々に減速してゆき、駅のホームに入り、そして停止した。  気の抜けたブザー音が鳴り、電車のドアが開く。  反射的に立ち上がった俺は、座席に座ったままの鉄生(彼が降車するのは、まだ数駅先である)の方へ恐る恐る目をやった。 「鉄生、あの」 「ん」  俺を見上げる鉄生は、もういつもと何も違わない顔をしていた。しかし、不安な気持ちは一向に消えてくれない。 「……また、明日」  それだけ言うと、俺は足早に電車を降りた。ホームに下りてから一度振り返ったが、閉じるドアの隙間に見えたのは、腕と脚を組んで居眠りをしている鉄生の姿だった。  俺が服屋で買ったマフラーを彼に渡しそびれたことに気付いたのは、アパートに帰ってからのことだった。

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