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 どこか遠くで悲鳴が聞こえた。女の声だ。ぎゃあぎゃあと気が違ったようにけたたましく叫んでいる。  「センセイ」だの「動かないで」だのと煩いことこの上ない。……なにが「死んじゃう」だ。死のうとしてるのはお前のくせに。  もう帰ろう、鉄生。電車なくなるし。そう言おうとするが、口が全く動かない。と、途端に全身がえもいわれぬ鈍痛に襲われる。 「君、さっき救急車呼んだからね、すぐ来てくれるそうだから」  薄く目を開くと、逆光を背にこちらを覗きこむ年配の男の顔が見えた。さも心配そうな表情の白髪交じりのおっさん……それは、奇しくもこれから俺がレポートを提出しようとしていた古典の教授であった。  徐々に近づいてきた救急車のサイレンが、建物のすぐ間近で止まる。  俺はようやく自分の置かれている状況を把握し始めていた。  ――ああ、死ななかったんだ、俺。  寝転んだ自分の眼上には、先ほど自分が落下した庇が見える。なるほど、俺は地面ではなく階下のベランダに落ちたのか。……これじゃあ丸きりアレと同じじゃないか、と少しげんなりした気持ちになった。 「ああっ、こっち、こっちです~」 「お願いします~っ」  部屋の中で数人の女子学生が口々に声を上げる。多分、彼女達はこの階の空き教室で昼食を食べていたのだろう。たまたま彼女達がここに居なければ、俺はどうなっていたのだろうか。夢とごっちゃになっていたとはいえ、声が煩いとか思っていたことが本当に恥ずかしい。  少しして、ばらばらと複数の足音がこちらに近づいて来たと思ったら、あっという間に俺は数人の救急士に周囲を囲まれた。 「あ、意識ありますね」 「気分悪くありませんか?」 「はーい、それじゃあちょっと持ち上げますよ~。せーのっ」  救急士達が俺の手足を一斉にがっちりと掴み、一気に担架の上に乗せる。 「き、教授……」  この段になって、やっとか細く声が出せるようになった。教授がぎょっとした顔で俺の口元に耳を近づける。 「レポート、教授の講義のレポートが上のっ……」  上の鞄と懐に、と言おうとするも、 「レポート? ああ、いいからいいからそんなの、後から考えれば」  等と取り合ってもらえない。  まあ、そりゃそうだよな……。俺は心の中で天を仰いだ。眼を閉じると、瞼の裏ではまだあの閃光の名残がちかちかと瞬いていた。  そこからは、もうほとんどベルトコンベアに乗せられたかのようにコトは進んだ。  俺は学校に程近い大病院に運び込まれ、まずは右側頭部の傷をザクザク縫われた。 「結構ハデに割れたねぇ、でもこれくらいで済んで良かったねぇ」 とはその時の医者(お爺ちゃんだった)の談である。  頭の傷については自分でも全く自覚症状が無かっただけに、治療を受ける時に脱いだ上着の右肩あたりが滴った血でべっとりと汚れていたのを見たときにはゾッとした。  この辺で財布とスマホの入った鞄を屋上に置いてきたことに気付き、病院で電話を借りようとするも、その矢先に病院に両親からの電話が掛かってきて驚いた。  どうやら大学の方から先に親に連絡が行ったらしく、もちろん俺は両親にこっぴどく怒られた。  怒られるのはまだいいが、俺が自殺を図ったのではと本気で心配した母ちゃんに電話口で号泣された時にはもう……なんというか居た堪れなくていっそ消えてしまいたいような気持ちになった。  とにかく、各種の状況証拠(例・懐にあるレポート用紙や屋上にある鞄の中の少し汚れた残りのレポート及び教授の証言など)を駆使し、俺が世をはかなんで自殺しようとしたわけではないということだけは両親に信じて貰えたようである。  その後は打撲の治療と各種の検査を受け、大事を取ってそのまま二日入院することになったとさ……。 「……というわけなんだよ。しばらく頭洗えないからもうキモチ悪くって」  おおよそ三日ぶりの大学へ出席するなり友人達に囲まれた俺は、昼食時の学食にてコトの経緯を説明し終えた。

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