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その日、俺は大学が終わるとすぐに帰宅することになった。
普段ならば放課後は友人達と駄弁ったりサークル(結局まだどこにも入っていない)を冷やかしたりしてダラダラと時間を潰すのが常だったのだが、鉄生に
「まだ病み上がりだろ。今日は大人しく帰って休んどけ」
との忠告を頂いたため、素直に従うことにしたのだ。
自分では平気なつもりだったが、よくよく考えるといつもよりも体が疲れているような気がしなくもなかったので、念のため一日くらいは大人しくしておこうと思った。
というか、最初は見学だけするつもりだった体操も、何だかんだで途中から普通に参加したし、確かに今日は少し無理をしすぎたかもしれない。
つーか、たった二日とはいえ入院生活がヒマすぎたせいで、いざ学校に復帰したら楽しくて必要以上にはしゃいでしまったのだ。
しかし、何もせずにゴロゴロするよりも学校へ行くほうが数段楽しいと感じられる日が来るなんて、これまでの人生で夢に思ってもみなかったことである。
多少話がそれたが、そういうわけで、俺は普段よりも何本か早い電車に揺られていた。
車内はぎゅうぎゅうという訳では無いが、かといって座れはしないという微妙な混み具合。どうやら、部活帰りの高校生達と電車の時間がバッティングしたらしい。
そんな中、俺はドアにほど近い位置の吊革に掴り、ぼんやりと窓の外を流れる夕暮れ時の景色を眺めていた。……鉄生と並んで。
何故って? 気がかりなんだってさ、俺の体調が。そうやって友達が自分のことを気遣ってくれるのはありがたいことだし、正直まあ悪い気はしない。しかし、
「ちょっと心配しすぎじゃない? さすがに俺だって、帰るくらい別に一人で……」
ちょっぴり気恥ずかしい気持ちを隠して、俺は鉄生にちらりと横目で視線を送る。
「……お前、立ちくらみであんなコトになったんだろ。駅のホームでやったらどうなるか考えてみやがれ」
返す刀でサラリと怖いことを言う鉄生。若干浮ついたテンションだった俺は、不意打ちで背中に冷水を浴びせかけられたような気分になった。
病院でさんざん「これくらいで済んでよかったねぇ」、「やっぱり若いうちは体が丈夫でいいねぇ」、「入院っていっても心配要らないよぉ。念のためだからねぇ」などと(主にあのお爺ちゃん医師に)言われ続けたせいか、すっかり全快のお墨付きを貰ったような気になっていたが、良く考えてみれば二度とあんなことが起きないという保証なんてどこにも無いんだよな……。
「き、気をつけるって……」
俺は心の中でがっくりと肩を落とした。いや、マジで気をつけよう。土手とか階段とか歩道橋とか、徹夜明けなんかは特に。
「まあ、今日はオレもバイトでそっちの駅に用事があるから、ついでっちゃあついでなんだがな。だから、わざわざ悪いとかって思うなよな」
「あ、そうなんだ」
「でもま、しばらくは大人しくしてろよ」
ほっとしたような拍子抜けしたような、複雑な感覚に襲われる。が、鉄生が最近バイトを増やしたらしいことは俺も知っていた。
「やっぱ新しくバイク買うんだ?」
「おう。さすがにアレじゃ通学には使えねえしなぁ……」
鉄生は見た目通りというか何というか、バイク乗りである。免許が取れる年になって速攻乗るようになったというので、キャリアもそこそこのものだという。
にしては俺と同じく電車通学であることをずっと不思議に思っていたのだが、この間初めて彼のバイクを目にしたとき長きに渡る疑問は一瞬で氷解した。
鉄生の愛車は一言でいうと“出前専用機”だった。それもかなり古めかしいタイプの。
しかし、それにはきちんとした理由がある。鉄生は元々金銭的に苦しい境遇にあり、高校に入ってからは親戚の営む蕎麦屋の手伝いをして生計を立てていたらしい(そもそも彼がバイクの免許を取得した動機が店の手伝いの幅を広げるためだったとか)。
で、鉄生が受験勉強を始めた頃にその蕎麦屋は店主高齢のため店を畳んだのだが、その際に店主の好意で出前用バイクを譲り受けたのだそうな。
今でもたまにその親戚のツテで知り合いの店の出前に駆り出される(もちろんバイト代は出る)らしく、また鉄生本人にも並々ならぬ思い入れがあるためバイクから出前機は外せないのだとか。
それにしても、一人暮らしの生活費はもちろん大学の費用すら親に頼っていないというのは、俺にしてみればほとんど想像を絶する世界である。
ふとした拍子にそういった話に思いを馳せるたび、俺は自分がいかにぬるま湯のような環境で生きてきたか身につまされると同時に、
「う~ん、そろそろ俺もバイト始めようかなぁ……」
などと妙に意欲的な気分になるのだが、さすがに今ここでその台詞を口にするのは少し不味かったかもしれない。
「だから、もうしばらくは大人しくしとけっつったろーが」
こちらを鋭い目つきでじろりと睨むと、鉄生は溜息混じりにそう言った。こころなしかいつもよりも声が低い。
「……ハイ」
今度こそ俺は実際にがっくりと肩を落とした。何だか、色んな意味で涙が出そうだ。主に、さっき言われたことをすぐ忘れる自分のアホさ加減などに。
などとやっている内に、そろそろ降車駅が近づいている。俺はほとんど反射的に吊革を強く握りなおした。
電車はスピードを落とすことなく、徐々に線路の内側に向かって傾いていく。この先、俺の降りる駅に着く少し手前で電車はかなりの急カーブを通ることになるが、座っているならともかくとして、立っていると吊革に掴っていてもかなりキツいと感じることもしばしばだ。
でもまあ、乗り慣れているし大丈夫、平気平気。……かな? 大学に入ってすぐの頃などは生来の運動神経の悪さも相まって、電車がこのカーブに差し掛かるたびに盛大によろけて周囲の乗客から顰蹙を買っていたものだが……。
土壇場になって心の隅っこに小さな不安が生じるも、当たり前だが電車は止まってはくれない。
昔、漫画か何かでチラッと読んだ“ジェットコースターの上で立っていても絶対にコケない体勢”みたいな図をぼんやりと意識しつつ、いよいよ強まってきた横殴りのGに抵抗して全身にぐっと力を入れる。
その途端、まるでタイミングを見計らっていたかのように、がたんがたん、と車体が二度大きく振動した。
「わ、やば、……っ」
一度目の揺れに負けまいと踏ん張ったタイミングで二度目の揺れに見舞われ、俺は大きくよろめいてしまう。ひやりとした感覚が背筋を駆け下りた。
あ、ひょっとしたらコレ意識して余計ダメになったパターンかも、などとヒヤリとしたその時、背後から襟首を強い力で掴まれ体を引き上げられた。はっとして横を見ると、鉄生が片手で俺の体勢を支えてくれている。
やべえ、何だこいつイケメンすぎんだろ……などと思ったのもつかの間、鼻孔の奥にふわり、と何かの匂いを感じた瞬間、俺の意識から鉄生のことはおろか、何もかもがぶっ飛んで行ってしまったのであった。
あれ、これ何のニオイだ、最近どっかで嗅いだ覚えのあるニオイだけれど……なんて思う暇も無く、俺は唐突に“あの感覚”の真っ只中に放り出された。
懐かしくて、甘くて、暖かくて、綺麗で、うっとりとして、気持ちがいい。気持ちがいい。気持ちがいい。
ざわざわと空気が揺れる。いくつもの訝しげな視線がこちらに向いているのを感じる。一体どうしたんだろう? でも、そんなことどうだっていい。
「……おいっ、ちょ、どうした」
どこぞから声が聞こえてくるが、いかんせん遠すぎてよく聞き取れない。誰かがひどく慌てているようだけれど、きっと俺には関わり合いの無いことだろう、多分。だって、こんなに文句のつけようも無いくらいに気持ちがいいんだから。
最初はほのかに香るくらいだった例のメロンソーダの匂いは徐々に濃度を増して行き、今や空気がメロンソーダと取って代わってしまったかのようだ。
息をするたびに甘い香りが肺に充満し、目の前にぱちぱちと色とりどりの火花が弾ける。この調子だと、俺の脳髄がシロップ漬けにされてしまうのも時間の問題のようだ。
――ああ、もう立っていられない。
「洋介!!」
耳元で大声で名前を呼ばれ、はたと我に帰る。気付いた時には、俺は全身の体重全てを鉄生に預け、半ば抱きかかえられるようにしてかろうじて体勢を保っている状態だった。
「うわ!? ごめんっ!!」
急速に己の置かれている状況を理解した俺は、慌てて鉄生から身を離し吊革に掴りなおすが、まだ足元がおぼつかない。
それにしても、俺は一体どれくらいの時間こうしていたんだろう?
「大丈夫か、いいから掴ってろ」
深刻な表情をした鉄生に顔を覗き込まれ、体を引き寄せられるが、さすがにもう一度あの形に収まりなおすのには色んな意味で抵抗があった。
「や、多分もう平気だから……」
「平気じゃねーだろ、どう見たって」
「……あ、あのう」
俺と鉄生が軽い揉みあいに発展しそうになった所で、正面下方から遠慮がちな声がかかった。見れば、座席に座った部活帰りっぽい女子高校生が腰を浮かせてこちらを見上げ、小さく手を上げている。
「気分が悪いんでしたら、その、席……」
気まずさと恥ずかしさと申し訳なさと何だコレといった感情ががない交ぜになり、俺の胸中にどっと押し寄せる。
思わず鉄生の方を見ると、奴は無言で頷いた。
確かに、調子が悪いのであればお言葉に甘えさせていただくほか無いだろう。しかし、何故か今は妙に気分がスッキリしているというか、これから立ち続けても先ほどのようにフラついたりする気が全くしない。
と、その時
『えぇ~、間もなく××、××んなります~……足元にお気をつけ……っさい~』
鼻にかかった声の車内アナウンスが次の停車駅を告げ、電車が徐々に減速を始める。
「あ、あの、俺、もう次の駅で降りるんで、大丈夫です……」
そう言って、俺は親切な女子高生に頭を下げる。と同時に、内心少々の衝撃を受けていた。
アナウンスされた駅名は俺の降りる駅だった。つまり、あの大きなカーブを曲がって俺が意識を失ってから、さほど時間は経っていなかったようなのである。
先ほど我を取り戻したとき、俺はまるで長い夢から覚めたような気分でいた。きっと長い間鉄生に抱きついた状態で過ごしたんだろうと思ったし、降車駅も当然の如く既に通り過ぎてしまったものだと思い込んでいた。
訳が分からなかった。いや、そもそもさっきのは一体何だったんだ?
客観的な状況だけを見れば、俺がまた立ちくらみを起こしたというだけのことかもしれない。しかし、アレは到底それだけでは言い表せないような出来事だった、と思う。それも、俺の記憶が確かならば、ああいったことは少し前にも一度経験している。
不意に、口の中にあの人工的な甘い味が蘇ったような気がして、俺はぞくりと身を震わせた。といっても、恐怖のあまり、というわけではない。それは明らかに快感の余韻によるものだった。
――本当に一体何なんだ、これ。つーか、どうしちゃったの、俺。
それから間を置かずして電車は駅のホームに停止し、俺の思考もそこで中断した。
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