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 結局、俺は自分の住むアパートに鉄生に付き添われつつ帰宅した。 というか、あんなことがあった以上、どれだけ大丈夫と言っても奴には無駄だった。  階段で足を滑らせたら危ないという、正当なんだか過保護なんだかよく分からない理由で、鉄生は二階にある俺の自室の真ん前までついて来たのだが、俺がドアに鍵を差し込んだところでようやく納得したらしい。 「じゃーな。無理せずに明日は休めよ。んで、できたらもう一回病院行って診て貰えよな」 「う、うん……わかった。今日はホントにごめ……ありがとう」 「気にすんな。んじゃオレ、バイト行くわ」  屈託無く笑うと、鉄生は手をひらひらとさせながら、日の沈みかけた街へと去っていった。  その姿をひとしきり見送った後、ドアを閉める。 「あ」  部屋の電気を点けた途端に、コートハンガーに引っ掛けたままになっていたマフラーの紙袋が目に入り、俺はちょっとした後悔の念にかられた。  一人暮らし。最初は少し寂しく感じることもあったが、今ではこんなに気楽な生活も無いと思っている。  自分の好きなときに寝て好きなときに食べる。そりゃあ、大学生らしい生活を逸脱しすぎない常識性と他人に迷惑をかけない分別は必要だが、家族と暮らしていた時とは自由度がケタ違いだ。  こんな風に、帰宅してすぐ寝巻きに着替えてゴロゴロしていたって誰にも文句を言われないなんてマジ最高である。 「……だよな。何なら明日渡したって……あ、明日は休むからダメか。いや別に休まなくっても別に……いや、もう休むって言っちゃったし。それにしても渡すタイミングがさぁ、何も無いのに急にマフラーあげたって変だと思われるかもしれんし……ああもう、俺ってホント気が利かないっつーか……」  ベッドの上でごろごろとしていたら先ほどの後悔がぶり返し、俺は一人悶々と答えの出ない堂々巡りを繰り返していた。  自由で孤独な一人暮らしのもたらす弊害である。ヘタに考えを遮られる切欠が無いだけに、いつまでもいつまでもグダグダと落ち込み続けるハメになるのだ。  しかし、こんな今更どうしようもないことを考えていても仕方ないじゃないか。俺は、入院以来洗っていない(そして今日あたり様子を見て、傷が痛くなければ洗ってみようと思っている)髪をを両手でくしゃくしゃとかき回し、目を瞑る。そうして、今度は帰りの電車で起きた出来事について思いを馳せた。  そうだ。そうだよ、あれは何だったんだ。電車がカーブする衝撃でフラついて、あ、こけちゃう、ってヒヤッとした瞬間……どう表現したらいいものか、こう、意識が変な風に飛んだというか、トリップしたっていうか。  甘い匂いと多幸感。学校のテラスから落ちた時に感じたのと同じだ。一種の走馬灯みたいなものかとも思ったが、電車の時は別に命に危険があった訳ではない。  聞いた話だが、貧血で気を失う時に人によっては快感を覚えることもあるらしい。  が、病院でさんざん検査をさせられたため、自分が貧血持ちではないということは既に証明済みだ。もちろん、眩暈やてんかんの検査もクリアしている。  俺がテラスから落ちた原因については、前日徹夜をしたために眠気やら疲労やらであくまで一時的にクラッときただけだろう、との診断を下された。  少なくとも自分の体に関し、今のところ怪我以外の異常は発見されていない。しかし、電車で起きたことが普通の体験では無かったことは確かだ。 「う~ん……もう一度病院に行くにしたって、どの科に診てもらえばいいんだろう……っつーかどう説明したらいいのかな……。電車に乗っててヒヤッとしたらメッチャ気持ちよくなって倒れたんです……とかって言えばいいのか? なんか俺、クスリやってるとかって思われたりしないだろうな……。でも、脳がどうにかなってたらそれこそコワいしなぁ」  ぶつぶつと呟きながら、ごろりと寝返りを打つ。と、勢い余って俺はシーツを巻き込みつつ、ベッドから床へと派手に転げ落ちてしまった。 「ひゃっ」  あぶね、と思った次の瞬間、俺はメロンソーダの水面にざぶんと着水した。途端、目の前には鮮やかな色彩が弾け、緑色の閃光が部屋中でちかちかと瞬く。  不思議なことに、今回は俺が意識を失うことは無かった。  その証拠に、はっきりとした意識でもって、まるでスローモーションのような速度で自分の体がカーペットの上に落ちて行く様子が詳細に感じられた。  勿論、床にぶちあたる瞬間もきちんと把握できたが、痛くない。全く持って何の痛みも感じない。それどころか、全身を包むじれったい浮遊感の後に訪れた重みのある衝撃が爽快で、いっそ心地よくすら感じた。  俺は床に転がったまま、しばしの間金縛りにあったように身動きが取れなかった。いや、敢えて身動きを取らなかった、という方が正しいのかもしれない。  俺の口元は、しきりに「なんだろう、なんだろう」という動きを繰り返して、表向きは“その感覚”の正体を見極めようとする姿を取り繕っていた。しかし何のことはない、ただ単に“その感覚”を少しでも長く味わっていたかっただけのことである。  うわあ、これやばいよなマジで。明日絶対行かなくちゃ、病院。また入院なんてことになったらどうしよう? そんなことをぐるぐると考えながら、このとき俺はすでに心の隅でこう考えていたように思う。  ――でも、病院行ったら「治っちゃう」んだよな、コレ。

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