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翌日の昼過ぎ、俺はとぼとぼと病院を後にした。今目の前に鏡があったなら、さぞや腑に落ちない表情をした根暗野郎の顔が拝めたことだろう。
気合を入れてあさイチで病院を受診したのは良いが、そこは平日の総合病院、待合室は既にジジババ達のひしめき合う社交場と化していた。
事前に予約も入れていなかったため、俺が診療室に入れたのはつい十五分前ほどの話である。
俺はてっきり以前お世話になった爺さん先生が診てくれるものと思い込んでいたが、診察室にいたのは全く別の中年の医者だった。聞くと、今日は爺さんの担当している曜日ではないとか。
――そうねえ、ついこの前に撮ったCTもレントゲンも特に異常は見られない、ひょっとすると、そのフワフワするというのは精神的な後遺症によるものかもしれんねえ。できる検査は入院中に全部済んでるみたいだし、今日のところはひとまず様子をみてもいいんじゃないの? いずれ収まっていく可能性もあるし。あ、怪我のほうは順調に治ってきているようだけど、一応もうしばらく湿布出しとくから。じゃーお大事に!
わりとぞんざいな態度でそのようなことを言われ、痛み止めと湿布薬のおかわりを貰って診察は終了だった。
……あれか。俺が症状の説明をちょっとぼかしたのが良くなかったのだろうか。“何かが切っ掛けで立ちくらみみたくフワフワすることがあるんです”じゃ、正確さに欠けたのだろうか。それとも、受診する科が間違っているパターンなのだろうか?
「うう~ん……精神的な後遺症、ねぇ」
精神的な後遺症。何かしら衝撃を受けるたびにショックがぶり返すというか、落下したときの感覚を追体験している、理屈としてはそんなところだろう。
なんだか納得できるような、できないような……。
病院からの帰り道、俺は考え込む余り道端で立ち止まって腕を組み、ため息などをついてしまう。
「どっちにしても、しばらく様子見か……」
平日昼間の市街地は閑散としており、人通りもまばらだ。よって、明らかに挙動不審な大学生風の男(つまり俺)を気にする者もいない。
それにしても、今日はこれから一体どうしたものか。病院と大学は距離的に近いので、ここから大学に向かうことも不可能ではない。というかぶっちゃけ徒歩で数分だ。
が、病院のクソ長い待ち時間(しかも延々と見知らぬお婆ちゃんに絡まれ続ける)で精神的に疲れ切ってしまった今、退屈な講義を聞きに行く気分には到底なれなかった。
……もういいや。どこかで飯だけ買って帰ろ。寒いし。そう思ってくるりと踵を返したとき、目に入ったものがあった。
公園の入り口からちらりと覗く、子供用のブランコ。ちなみに、この公園とは俺が鉄生とよく待ち合わせ等に使用する例の公園である。
近年、安全性の問題により公園という公園から子供用の遊具が撤去されて久しい。御多分に漏れずこの公園もそうであるらしく、かなりの敷地面積の割に現在設置されているのはこのブランコのみという有様だ。
しかし、その普段ならば気にも留めないような、ペンキも剥げかかったしょぼくれたブランコを目にした時、俺は妙な出来心にかられたのである。
――ああいうのに乗ったら、もしかすると“あの感覚”を人工的に引き起こせるんじゃなかろうか?
俺は吸い寄せられるように公園へと足を踏み入れた。幸い、園内には猫の子一匹いない。そりゃそうだよな、寒いもの。
空を見上げると、先ほどまではかろうじて照っていた太陽は厚い雲に覆われ、こころなし風も強くなりはじめたようだ。一雨きてもおかしくない空模様だ。
いつもの俺なら速攻帰宅して暖房のスイッチを連打し、ちょっぴり早いこたつの出動まで検討しはじめるところだが、今日は違う。寒がりよりも出来心が勝ったのだ。
俺は荷物を手近なベンチに置くと、恐る恐るブランコに腰かけた。……立ち漕ぎは万一のことも考えてやめておいた。そして、持ち手をしっかりと握り、俺はブランコを控えめに漕ぎ始める。
ブランコに乗るのなど何年振りのことだろう。小学校以来か? というか、今公園に児童がいたら俺の存在は事案ものだろうか。どう見ても怪しいし。
そういう意味で、寒くて天気が悪いのはラッキーだった。さすがにこんな天気で公園に遊びに来る子供や親子連れもいまい。
どうでもいいことを考えながら、ブランコを漕ぐ力を徐々に強くしてゆく。まだ“あの感覚”は来ない。しかし、そうだ、こうやって実験することによって“ここまでは大丈夫”というラインが分かるようになるかもしれない。
……だとしたら、非常に有用なことを俺はやっていることになる。
だんだんとテンションが上がってきた俺は、上機嫌で一際力強く足を伸ばした。一気にブランコのふり幅が増し、視界の高さに腹の奥が少しひやりとする。と、鼻孔の奥から微かに甘い匂いの粒子が湧き上がるのが分かった。
来た。……ホントに来ちゃった。
でも意識はしっかりしているし、フラついてもいない。大丈夫だ。むしろ気力が沸いて元気になってきているような感じがする。
俺は気分よくブランコを漕ぎ続けた。不思議と風の冷たさも気にならない。そのうちに振り子運動を続けるブランコの高度は、座り漕ぎの限界まで達したようだった。
甘く懐かしい空気を胸いっぱいに吸い込むと、俺はブランコを漕ぐのを止め、爽快な気分に浸った。
薄々感づいていたが“あの感覚”は自分が思わずヒヤッとしてしまうようなスリル感と密接に関わっているようだ。
大方、恐怖を和らげるための脳内麻薬的な何かの仕業なのではないだろうか? ソレの分泌が度を超すと、電車でのケースみたくなってしまうのだろう。
なら、気を付けてさえいれば街中で突然失神、などといったケースは注意して避けられるだろう。電車は……まあ、当面は必ず座れる時間に乗ればいいか。
徐々にブランコの揺れは収まってゆくが、気分はまだ幾分か高揚していた。
揺れるブランコが腰の高さほどになった時、俺は少しぶりをつけて地面に飛び降りた。小学生の時によくやっていた癖で、先生に見つかると危ないと怒られるやつだ。
「おっと、……っ」
案の定着地しそこねて、大きく体がぐらついてしまう。不格好な態勢で地面の砂に手をつきながらも、再び脳内に湧き上がった鮮やかな緑色に俺はうっとりと目を細めた。
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