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 いつの間にやら季節は秋から冬へと移り変わり、雪の積もる日も珍しくも何ともなくなってきた頃のこと。  俺は色々と忙しくしていたものの無事に後期の試験を乗り切り、何とか単位の不足なく大学二年生に進級できるところまで漕ぎつけた。  その記念というか自分へのご褒美にと、俺は数回分貯めたバイト代をはたいて隣県にある非常に評判の高い遊園地に、冬休みの前日から一泊二日の予定で赴いたのだった。  が! 俺の滞在中の二日間にわたって、目玉のジェットコースターがまさかの整備中ときたもんだ。  一日滞在を伸ばそうにも、翌日の日付といえば十二月二十五日、つまり世間でいえばクリスマスである。都合の付く宿泊施設が見つかろうはずも無い。  掛けたお金の大きさと期待値の高さとが相まって、二十四日の夜に帰宅した時の虚しさもひとしおだった。  その日の深夜、俺は防寒ジャケットを着込むと自転車に跨り、北風吹きすさぶ真っ暗な夜道に向かって漕ぎ出した。  メロンソーダ(もちろん飲み物のことを言っているのではない)無しで大学生活の一年目を締めくくることができなかったのだ。  目指したのは、街から少し山側に入った場所にある、俺が見つけた坂道の中ではカーブの長さ・傾斜の急さ共に最高ランクの、ちょっとヤバめなスポットである。人通りも車通りもほとんどない廃道で、近所に民家も無いことから、夜中に行っても誰に迷惑をかけることも無いだろう。  まあ多少の危険は伴うが、そこは十分気を付けるつもりだった。そして、ちょいとキツめのメロンソーダ感を満喫したら、また来週からバイトを頑張ろう。んで、冬休みのうちにあの遊園地にもう一回行って、今度こそ乗り損ねたコースターに乗ろう。そんな風に思っていた。  というか、遊園地のコースターがハズレだった際に自転車に乗って鬱憤を晴らす行為は、これまでにもしばしば行っていたということを付け加えておく。……だから油断したんだろうか。  ――気づけば、俺は凍り付くような地面に横たわり、枯れた木々の隙間から覗くエメラルド色をした満月を夢見心地で見上げていた。  “俺、どうしたんだ?”という疑問と、“ああ、なるほど”という納得が胸中で静かに同居している、なんとも奇妙な気分だった。  しばらくぼんやりしていると、こうなる直前の記憶がだんだん蘇りはじめる。  風を切る自転車、激しく上下に揺れるライト、奇声を上げる最高にハイな自分、激突、そして闇に吹き飛ぶ白いガードレール。  そうだ、今日はやけに自転車のスピードが出て、ブレーキをありったけ握っても全然効かなくって……おそらくは地面の凍結のためだろう。十分に気を付けていたつもりが、そこまで気が回っていなかった。何せ、地元では地面が凍るなんて滅多になかったものだから。  ――あ~あ、遂にやっちゃったなあ。  そう口は動けども、声は出ない。ついでに体も動かない。俺は死を覚悟した。  初心を忘れてメロンソーダ感(って何なんだ、今更だが)に溺れるようになってから、薄々こんな日が来るような予感はしていたが、さすがにちと早すぎはしないか。  体中がこれまでで三本の指に入るくらいのレベルで心地よいのはいいが、何だか情けなさのほうが心情として勝っていた。  目の前でふわふわと踊るグリーンのオーロラじみた幻想的なイリュージョンは、おそらく己の吐き出す白い息なのだろう。  余りに目まぐるしく姿を変えるソレを眺めているのに疲れてきて、俺は目を閉じた。……目を閉じても見えるものはあまり変わらなかった。  ――凍死コースだな、これは。つーか、ちゃんと発見されるんだろうか、俺の死体。屋上から落ちた時といい、自業自得が過ぎるぜ。自分がアホすぎていやになる。ほんと、止めときゃ良かった。  なーんて、後悔しても後の祭りだ。こんな訳の分からない死に方、親は泣くだろうな。せめて何の事件性も無いことだけは伝えたいけど、今更無理か。それなら、いっそ死体が見つかんない方がいいのかなあ……。  深々と息を吐き、俺は再び目を開けると月の煌々と輝く空に視線を向けた。  その瞬間、俺は信じられないものを見た。  月を背にして、こちらをのぞき込む人影。緑色の月に溶け込むような深い緑色をしたシルエットは、まるで全力で走った後のように大きく肩を上下させ、荒い息を繰り返していた。  最初に頭に浮かんだのは、“幽霊”の二文字だった。次に、“死神”。とうとう連れに来たのか、と思った。が、どうも俺はまだ死にそうには無い。最終的には“幻覚”ということで落ち着いたのだが、そいつの正体はそれらのどれにもあたらなかった。 「馬鹿野郎……!」  絞り出すようにそう言うと、影は俺の体のすぐ傍に膝をついた。ぐっと顔を覗き込まれ、俺はそれが誰であるかようやく理解する。  デカくて、コワくて、イカツくて、ややくどいくらいのヤンキー顔に額の傷、オールバックは以前に比べて少し伸び、あと相変わらず変なジャージ。そのどれもが懐かしい。 「鉄生」  驚愕のあまり、出ないはずの声が出た。 「あんま喋んな」  険しい口調でぴしゃりと言われるやいなや、俺は鉄生の背に一気に担ぎ上げられた。同時に、頭の中に幾つもの疑問符が沸き上がる。  ――鉄生? 鉄生ってあの鉄生? 一体なんでこんな場所に? これ、やっぱ幻覚? 俺、今わの際の夢でも見てんの?   俺が激しく混乱している間に、鉄生は道なき道をものともせずにずんずん斜面を上ってゆく。そのうちに俺も頭からメロンソーダが抜けて、次第に現実感を取り戻しつつあった。  ――ああ、なんかしんないけど、助かったんだ俺。  途端に全身を痛みと凍えが襲うが、その人として当たり前の感覚に俺は言いしれない安堵を覚えた。  見ると、今いる斜面を登り切った所にある道路から一台の車がこちらに向かってライトを照らしており、どうやら鉄生はそれを頼りに歩いているらしい。  と、唐突に鉄生が歩みを止めた。 「……あれは置いてくけど、いいな」  ぼそりと呟いて何かを一瞥すると、再び歩き始める。鉄生の背中に担がれた状態で体を動かすこともできないため、俺は直接“あれ”を視認することはできなかったが、彼が何のことを言っているのかは大体察しがついた。  おそらく、鉄生の視線の先には俺の乗っていた自転車があったのだろう。それが一体どんな有様だったかは分からないが、こちらとしても特に異論は無い。  ほどなくして、鉄生は俺を背負ったまま道路まで登り着いた。そして俺は車の後部座席に放り込まれ、そのままの足で病院の救急窓口に連れていかれることとなったのだった。  幸いにも、俺は今回もかなりの軽傷だった。事故直後に体の自由が効かなかったのは一時的に肩及び足の関節が外れていたためで、処置(めっちゃ容赦なく元に嵌め戻す)をしたらすぐに歩けるようになった。  医者曰く、地面が滑りやすい状態だったことが逆に良い方に働いたとかなんとか。  他に目立った外傷といえば、両手の爪が所々割れたり剥がれたりしているくらいのものか。どうやら俺は斜面を滑り落ちる際、無意識に何かに掴ろうとしたらしい。日常生活に多少の不便はあるだろうが、死にかけたことを考えればこのくらいはどうということはない。  最終的に、 「若いからって無茶ばかりするのは良くない、万一のことがあったら泣くのは君の親御さんなんだからね。マウンテンバイクとか最近は流行ってるみたいだけど、学生なんだから真面目に勉強をうんたらかんたら」  的なお説教を頂いて治療はお終いだった(マウンテンバイク云々というのは、自転車で転んだと説明をした際に医者が勝手に勘違いをしたものと思われる)。  この間、鉄生はずっと俺に付き添って肩を貸してくれており、先のお説教なども実は一緒に聞いていたりするのだが、この上俺は彼に治療費まで立て替えてもらうことになってしまった。  というのも、そもそも俺が手ぶらで出かけていたため仕方ないといえば仕方ないのだが、それにしても情けない話である。  そんなわけで、俺は例によって家まで送り届けられた際、彼に部屋に上がってもらうことにした。お礼も言いたかったし、部屋には生活費が置いてある(さすがにそれらを遊びのために切り崩さないだけの理性はあった)ので、そこから先ほど立て替えて貰った治療費だけは返しておこうと思ったからだ。

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