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 お尻のポケットを探ると、部屋の鍵は果たしてそこにきちんと収まっていてくれた。俺は割れた爪の痛みに顔を顰めつつ自室の鍵を開けると、 「ごめん、全然片付いてないけど上がって」  などと、凡庸な台詞でもって鉄生を部屋に招き入れた。  実際、バイトをはじめてからは忙しさにかまけて部屋の片づけはおろそかになりがちではあったが、まあ、男の一人暮らしなら許容範囲といった程度であろう。  今度一回暇を見て大掃除でもするかなあ、とか呑気に考えながら俺は玄関の扉を閉めた。……閉めた?  扉を閉めて振り返った瞬間、俺は真正面から物凄い力で抱きしめられていた。誰に? 無論この場には俺以外には鉄生しかいないわけだが、意味が分からない。 「へ? え? 何? ……何なの?」  俺の問いに鉄生は答えない。しかし、背に回された腕にこもる力はその間にも増してゆくばかりだ。お互いの身長というか体格差のせいで俺は完全に胸にすっぽりと収まってしまっているため、どう頑張っても鉄生がどんな表情をしているのか窺い知ることができない。……というか、だんだん苦しくなってきてしまった。 「なあ、鉄生これ一体……」  何の冗談、と言いかけた時、俺の頭の真上あたりで鉄生が大きく鼻をすすった。そして、ものっそい涙声でこんなことを言い出したのだ。 「ずっと一緒に居たってのに、気付いてやれなくて悪かった……お前は自分で死のうとするほど苦しんでたっていうのによ……!」 「は? いや、俺は別に」 「あの時だって、そうだったんだよな。お前、口じゃあんなこと言ってたけど、本当は強がってただけだったんだろ?」 「あの時とかあんなことって、鉄生、一体何の話を……」 「あの時っつったらあの時だろ!! 服買いに行った帰りの。言ってたじゃねーか、“自殺なんて心の弱い人間のすることだ”つって!!」  やけになったような口調で、鉄生が怒鳴る。同時に、数か月来の胸の引っ掛かりが取れたような気がした。あ、やっぱり俺、あれ口に出しちゃってたんだ。  それはさておき、鉄生は何かひどい勘違いをしているらしい。俺は手短に彼の誤解を解こうと口を開いたが、 「……今は何も言わなくていい」  などと、余計に力強く頭を抱き込まれてしまい、話すことはおろか呼吸すら危ういような状況に陥ってしまう。  ふと、鉄生の鉄生的な体臭(何か太陽と埃の入り混じったような匂いがして嗅いでいると妙に落ち着く)の奥に、馴染みのある甘い匂いが微かに香ったような気がした。  ――ああ、俺もしかすると今、ちょっと鉄生のこと怖いって思ってるのかも。  そんなことが頭を過ぎり、変な罪悪感が胸に刺さる。しかし、苦しいものは苦しいんだから仕方がない。 「ちょ、苦しい……っていうか痛いよっ」  声にならない声で抗議を入れつつ全力でじたばたともがいて、ようやく鉄生の腕が少しだけ緩んだ。その隙をついて、俺は半身だけ鉄生と距離を取ることに成功した。とは言っても、思い切り上体を後ろに反らせただけである。 「……っと」  バランスを崩した鉄生が片膝をついて俺の背を支えなおしたため、何だかまるで出来の悪いダンスでもしているような、非常に間抜けな体制に俺たちは落ち着いた。いや、それは置いといて、 「鉄生、俺は間違っても死のうだなんて」  見上げた鉄生の表情のマジさ加減に気後れしながらも、恐る恐る告げた言葉は、一言のもとに切って捨てられた。 「嘘だな」    と、俺の背を支えていた鉄生の手の一方が徐々に位置を下げて行き、宙ぶらりんになっていた俺の左手を捕まえる。そして、鉄生は文字通り手探りで俺の左手首をごそごそと弄り始めた。  何やら尋常ではない雰囲気に呑まれた俺は、鉄生と目線を合わせた状態で言葉を失い、されるがままになってしまう。  節くれだった指が優しい調子で腕を這い回る感覚に俺はただ背筋をゾワゾワさせているだけでいたが、まさか鉄生がある明確な意図をもってこの行為を行っていたとは思いもしなかった。  俺の手首のある一点を、鉄生の指がゆっくりと撫で下ろす。そこには微かに、しかしはっきりとした引っ掛かりが存在した。 「これ、てめぇでやったんだろーが」 「え、…………あっ」  最初は何のことを言われているのか全く分からなかったが、突如として記憶が蘇る。これ、アレだ。指の間をカッターでトントンやってた時に手元が狂ってザックリやった傷だ。  それみろ、といった表情でこちらを見てくる鉄生に対し、どうにか言い訳を試みるも、 「いや、自分でやったかって言われればそりゃ自分でやったんだけど、これは遊びみたいな感じっていうか、や、そうじゃなくって、どっちかっていうと事故みたいなモンっていうか……」  俺の生来の口下手と焦りによって、余計に墓穴を掘るような結果に終わったようだ。鉄生の俺に向ける視線の冷たさは降下の一途をたどり、もはや絶対零度の様相を呈していた。  今にも取って食われそうな空気に耐え切れず、俺は叫んだ。 「とにかく全部正直に話すから、お願い離してッ!!」 「おう、聞かせてもらおうじゃねーか」  さっき、今は何も言わなくていいとか言ってたじゃん、と俺は心の中でそっとつっこみを入れた。  そんなこんなで俺が鉄生の抱擁から解放されたのは、夜も完全に明けてしまってからのことであった。  半開きのカーテンから弱弱しい朝日が射し込む部屋の中、俺と鉄生は取調官と容疑者よろしくローテーブル(つーかちょっと柄がお洒落なだけの卓袱台)を挟んで向かい合っていた。 「ー―で。それで全部ってか」  一しきり俺の話に耳を傾けていた鉄生が、重苦しくため息をつく。二人きりの部屋の中に、何とも気まずい空気が流れた。 「……まあ、……ハイ」  俺は、ここ数か月間の自分に関する事柄を、包み隠さず正直に話したつもりだったが、鉄生の表情は依然として訝しげなままだ。 「危ねーコトをすればするほどイイ匂いがして気持ちよくって? んで、特に死にたいワケじゃねーと」 「ホントそれだけなんです……」

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