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冬休みの終わりも残り数日に迫った頃のこと、俺は朝からどうも体の調子が優れなかった。
頭がズキズキと痛み、寒気で体が震え、熱のせいか足元がふらふらと覚束ない。
「う~ん、風邪かなぁ」
前日、狭い風呂場に無理やり二人で入って致した行為が頭を過ぎる。大方、あの後素っ裸で眠ったせいで湯冷めでもしたのだろう。
「洋介、大丈夫か? これなら食える?」
だるさに任せてごろごろしていると、キッチンから戻って来た鉄生が俺の目の前のローテーブルに剥いたリンゴの乗った皿を置いた。気持ちは非常に有り難いが、どうも食欲が湧かない。
「うん、まあ……俺、大人しく寝てるよ」
安静にしていればすぐに治るだろうと思い、俺はパジャマの上に半纏(受験時から愛用の品)を着込み、早々にベッドに入ることにした。
が、どうも様子がおかしい。いくら眠っても調子が良くなることは無く、時がたつごとに頭痛は激しさを増すばかりだ。
熱にうなされる様子が目に余ったのか、鉄生が心配そうにベッドで寝ている俺を覗き込む。
「おいおい、やっぱ病院行くか?」
「その方がいいかも……アタマ痛い」
そう言って、何となく頭に手をやった瞬間、目の前に白緑色の火花が散った。
「痛っ……!」
「洋介!?」
鋭い痛みのため一瞬で手を離してしまったが、頭部、それも右側頭部がひどく腫れていることがハッキリと分かった。
――ん? この場所って……?
「これ、屋上から落ちた時に縫った所じゃん……!」
その事実に思い当たった瞬間、俺は布団を跳ね除け、がばりと起き上がった。
「鉄生、俺、病院行く……これ、放っとくとヤバいかもしんない」
「わかった、オレも着いて行く」
幸いなことに、いつもの総合病院の正月休みの期間はもう終わっているはずだ。俺はふらつきながらも身支度を整え、鉄生に付き添われて病院に向かった。
病院で受付を済ませ、どうか大したことじゃありませんように、と祈っているうちに、すぐに診察の順番はやって来た。着いて来たそうにしている鉄生を待合室に置いて、俺は診察室の扉を開く。と、そこには、
「はい、次の方どうぞ」
「お願いします……って、あっ、お久しぶりです」
「あれ、君かね。今日はどうしましたか」
屋上から落ちて救急車で運ばれた際に診てくれた、爺さん先生がいた。ラッキーだ、これは話が早い。
俺が手短に病状を説明すると、爺さん先生は険しい表情で立ち上がり、俺の頭の傷を観察しはじめた。
「これは……多分中が化膿してるんだねぇ。気になるからレントゲン撮ろうか。あと採血」
深刻な声色で先生が呟く。俺は熱で朦朧とする意識の中、これから自分はどうなるんだろうとヒヤヒヤしっぱなしだった。
結論から言おう。俺は頭部にでっかい注射器をブッ刺され、内部に溜まった膿をちゅうちゅうと吸いだされました。恐かったです。……しかし、自分の頭の中にアレだけの量のモノが入っていたとは驚きだ。
その後、俺は化膿止め等の点滴を受けるため、病院に一泊することが決定した。鉄生は付き添いの名目で病院側に許可を取ったらしく、待合室のベンチで朝まで俺を待っていてくれることになった。……俺は一応、先に帰ってていいよ、って言ったんだけど。
カーテンで区切られた病室の狭苦しいベッドの上で、点滴パックから薄オレンジ色をした薬液が一滴、また一滴と落ちていく様子を眺めているうちに、俺は近年稀にみる程の深い眠りへと落ちていった。
翌朝、俺は妙にスッキリした気分で目覚めた。
起きてしばらくすると病室に看護師のおばさんがやってきて、俺の腕から点滴針を抜き、周囲をテキパキと片し始める。その様子を、俺はまるで長い長い夢から覚めたかのような心持で眺めていた。
違和感があった。いや、むしろ違和感が無くなった、と言った方が正しいだろうか。例えるなら、今まで意識に一枚フィルターをかけられていたのが今日起きると急に取り払われていた、そんな感覚だ。
「もう起きていいですよ」
「あ、はい」
看護師のおばさんに促され、俺はゆっくりと体を起こす。寝ている間に熱は下がったみたいで、すこぶる体が軽かった。
ベッドから降り、床に足が着いた瞬間、何故か
――ああ、俺は現実に帰って来たんだ。
そんな気持ちになった。
病室を出ると待合室のベンチで一人、鉄生が腕組みをして眠り込んでいた。
「鉄生」
名前を呼んで肩をぽんぽんと軽く叩くと、鉄生は大あくびを一つして目を覚ます。
「あー悪ぃ、スゲー寝てたわ……体の調子は? 大丈夫そうか?」
「うん、もう平気みたい。熱も下がったし」
「これで一安心ってわけか。……ホッとしたぜ。んじゃ、帰るか」
人気のない病院の廊下を歩きながら交わされる、何の変哲もない、何気の無い会話。なのに、俺はまたも奇妙な違和感に囚われていた。
――あれ? これ、鉄生だよな。うん、間違いない、どっからどう見ても鉄生だ。でも……。
受付で清算を済まし処方箋を頂いた俺は、どうも座りの悪い感覚を抱えたまま病院を後にした。
「……寒っ!」
病院の建物を一歩出るや、身を切るような寒さに思わず声が出た。
「? 朝は大体こんなもんだろ」
「俺は急に寒くなったような気がするけどなぁ……」
俺がぶつくさとぼやいていると、
「ほら」
鉄生が当たり前のような表情でこちらに向かって片手を差し伸べ、ひらひらと振って見せる。意味が分からずぼんやりしていると、苦笑いと共に無理やり手を取られた。
「え? え? ちょっと鉄生」
「人いねーからいいだろ、別に……おー、冷てぇ手。やっぱ洋介、まだ調子戻ってないんじゃねーか?」
ぴんと張り詰めた朝の空気の中、鉄生に手を引っ張られながら薬局への道を歩く。その道すがら、俺はこの違和感の正体についてずっと考え続けていた。
――鉄生が、鉄生なのに、鉄生じゃない。何かが違って見える……じゃあ、何が違うんだ?
「ん? どーした? 腹でも減った?」
俺の視線に気づいた鉄生が、怪訝な顔をしてこちらを振り返る。
――絶対的な庇護対象を見るような優しい目。恋人に話しかけるような甘い声。
それらは、特に不自然なものでは無いはずだ。だって、現実に俺は鉄生と準恋人的な関係にあり、また庇護対象にもあたるのだから。なのに何故だろう、“違う”と思ってしまう。
別に、鉄生のこのような態度は今に始まったことではなく、昨日から、いや、その前からずっと変わっていないはずだ。ならば変わったのは、もしかすると俺の方なのだろうか?
……これが、今日俺に起こった二つの変化のうちの一つである。もう一つは……。
「っ危ねぇ!!」
突然、鉄生が俺の手を強く引いた。鼻先を猛スピードで宅急便のトラックが掠め、俺は勢いよく後方へ引っ張られたことで道路に尻もちをついてしまう。
どうやら俺は考えごとをしながら歩いていたため注意力散漫となり、赤信号だというのに横断歩道へ足を踏み出してしまったようだ。
「バカ……! ったく、やっぱ手ぇ繋いでて良かったぜ。どーせ、まだぼーっとしてんだろ?」
俺は、血相を変える鉄生に頷いて見せながらも、その言葉はほとんど右から左へと抜けていた。何故なら、ここで俺は“もう一つの変化”に気が付いたからである。
――今、俺、すごく危なかったよな。不意打ちだったし、恐かったし、まだ心臓ばくばく言ってるし。
俺は鉄生の助けを借りて立ち上がり、服の汚れを払う。そうして、当たり前の動作をすることによって動揺する心を落ち着けようとした。
――なのに、全然アレが来なかった。あの甘い匂い。メロンソーダ。……メロンソーダ?
「……洋介? 気分でも悪いか? 薬貰ったら早いとこ帰ろうぜ。何なら、薬局のとこまでタクシー呼んでも……」
――何だ、メロンソーダって??
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