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10-2
「昨日できなかったから、足りなくなったんだろ? レモン? ソーダ。だから、そんなワケのわかんねーコト言って、オレをわざと怒らせようとしたんだよな?」
余りの恐怖に声も出ない俺に向かって、鉄生は諭すような口調で喋りながら一歩、また一歩と近づいてくる。
「ま、そうだよな。ケガが良くなるまではアレは控えなきゃいけないもんな。じゃねーと、治るもんも治らねーって。でも、こんなんで代わりになるかぁ?」
その言葉と共に、包丁の先端が俺の胸元にぴたりと突き付けられた。途端、寒気が背筋を伝って駆け上り、脳がキンキンに冷えていく。心臓が早鐘を打ち出し、体中を嫌な汗が伝い、膝が震える。しかし、それらは快感とは程遠い感覚だった。
皮肉にも俺は、鉄生のこの行為により“自分は完全に治ったのだ”と確信するに至った。
「違……っ」
「ん、それじゃあ……う~ん」
鉄生が包丁の切っ先をうろうろと移動させるが、俺はもうその動きを目で追うこともできない。
「ここ、とかか?」
首筋に冷たいものが当てられる感覚に、一瞬意識が遠のく。気付けば俺は床にへたり込み、恥も外聞もなく泣きじゃくっていた。
――違う。そうじゃない。そんなものいらない。俺は、そういうの抜きで鉄生と付き合っていきたいんだ。
……そう言いたいのに、声が詰まって言葉にならない。
鉄生は膝立ちになって俺の顔を覗き込むと、呻くように言った。同時に、彼の手に握られていた包丁が、硬質な音を立てて床に落ちる。
「もう、どーしろってんだよ……」
魂の抜けたようなか細い声に、胸がざわついた。
――ダメだ。このままじゃいけない。
俺は漸う呼吸を整えながら、ここからどう行動するのが最善なのかを必死に考えていた。
鉄生は力なく肩を落とすと、こちらに体重を預けるようにして凭れ掛かってきた。そして、俺の額に己の額を擦りつけると、今にも泣きだしそうな声でこういった。
「死ぬか、一緒に」
その言葉を聞くまでは、或いは俺の考えはまとまりかけていたかもしれない。
「何で……」
全ての思考が霧散した俺は、そう言うので精一杯だった。
「――だって。洋介は死にたいんだろ? もう大丈夫だなんて真っ赤な嘘で、本当はずっと死にたかったんだろ。でも、一人じゃ怖かったんだよな? 何だかんだ誤魔化してたけど、オレには分かるぜ。他の誰にも分からなくったって、オレだけは分かってやれる。だって、オレも」
「……違う!」
今度は、俺が彼の言葉を遮る番だった。力無くしな垂れかかる鉄生の体を振り払い、よろめきながらもその場から立ち上がる。そして、涙と鼻水で濡れた顔を袖で強く拭うと、呆然とした表情の鉄生を見下ろした。
「それは鉄生の誤解だよ。……俺は死にたくない。一緒に死んでもらいたいなんて思ってないし、鉄生に死んで欲しくも無い!」
「じゃあ、洋介は今まで何で、」
俺を見上げる鉄生の視線に、微かに非難の色が混じる。
「あれは、……屋上から落ちたショックとか……頭を打った後遺症で、感覚がおかしくなってたんだと思う。でも、治ったんだ。多分」
正確な診断が下されたわけでは無いが、おそらくはそういうことだったのだろう。
「俺、鉄生が居なかったらきっと何度も死んでると思うし、一緒に居てくれて心強かったし、勝手な我儘につき合わせちゃって心底悪いと思ってる。……本当に感謝してる。でも、一緒に死んで欲しいなんて絶対に望まないよ」
俺は、何度もどもったりつっかえたりしながらも、一気に最後まで捲し立てた。
しばしの間、俺と鉄生は見つめあう。……先に目を反らしたのは、鉄生の方だった。
「……そうか。アタマ打っておかしくなってただけ、か」
顔を伏せて泣き笑いのようにそう呟くと、鉄生は深い深いため息を吐いた。
「いや、それは鉄生への気持ちとは全然関係ないんだけど」
彼の物言いに引っかかるものを感じた俺はしどろもどろに付け足すが、鉄生は俺の言葉など聞きたくない風に頭を振ると立ち上がり、踵を返す。
「ん、分かった。大丈夫、ちゃんと納得したからよ。――予定よりちょっと早ぇが、オレ、一度帰るわ」
と、こちらを見もせずに言うと、おもむろに部屋の隅に置かれた自分のスポーツバッグを担ぎ、玄関の方へと歩いて行ってしまう。
「ちょ、鉄生……」
慌てて後を追うが、鉄生は頑なに足を止めようとしない。
「付き合うかどうかの返事は、大学始まってから……や、もういつでもいいわ。オレは本気だから、ま、じっくり考えてくれや」
鉄生は手早く靴を履いて玄関のドアを開くと、一度だけ俺の方を振り返り、努めて明るく笑ってみせた。
「じゃな、洋介」
そうして小さく手のひらを振ると、鉄生は部屋から出て行ってしまう。
音もなく閉じられた玄関扉に無言の拒絶を感じた俺は、そこで立ち止まるしか無かった。
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