――俺は、鉄生をこのまま行かせてしまっていいのか？　いや、しかし、俺は一旦彼と離れたかったが為にこうしたのであり、追いかけるのは本末転倒なのでは？　そうだよな、鉄生も大丈夫って言ってたし、ちゃんと分かってもらえたんだよな。鉄生、死んだりしないよな……？ 　半ば強引に自分を納得させて、玄関先から部屋へ戻ろうと体の向きを変えた瞬間、俺は自分の判断が間違っていることに気がついた。 　――あ、駄目だ。これ、追いかけなきゃいけない奴だ！！ 　俺の考えを翻させたのは、本棚の上に置かれた小さなオブジェ。アイツの宝物で忘れ物。そう、スノードームだ。 　衝動的に本棚に足をかけて登り、奴が子供のころから大切にしていたという、一際古ぼけたスノードームを引っ掴む。……引っ掴んだところで、ある一つの懸念が頭を過ぎる。即ち、 　――こんな大事なものを忘れて行くなんてどうかしてる。だけど、もしわざと置いていったんだとしたら？ 　俺は鉄生よろしく首をかしげると口元に手を当て、はやる気持ちを押さえて思案した。 　と、またもや不意に俺の目に入ったモノがあった。刹那、頭の中でパズルがかちりとはまる音が響く。長きにわたって忘れ去られていたソレを一も二も無く手に取ると、俺はスリッパから靴へ履き替えるのももどかしく部屋を飛び出した。 　俺の住むアパートを出てすぐの道は、見晴らしの良い大通りになっている。駅へと向かう方角を見ると、豆粒ほどの見覚えのある後ろ姿が確認できた。居た、鉄生だ。かなり遠いものの、追いつけない距離ではない。 「おーーい！　鉄生ーー！！」 　大音量で呼びかけると、俺はスリッパのまま猛ダッシュで彼の後を追った。 　俺は、一月上旬の早朝の大通りを走った。ただ走った。ひた走った。 　元来運動音痴な質だが、そんなの関係ない。冬の大気が薄い部屋着をガンガン通り抜け、寒さが肌に突き刺さる。スリッパはさすがに走りにくい。っていうか片っぽ脱げた。素足じゃアスファルトが痛い。だから何だというのだ。 　白い息を吐きだしながら、俺は無我夢中で走り続けた。 　開けた道の先、見慣れたバックプリントのジャージがだんだんと近づいてくる。 「鉄生ッ！！」 　鉄生は振り向かない。しかし、その歩みが止まったのを俺は見た。 　俺は必死で彼の進行方向へ回り込み、その行く手を遮るように両手を広げつつ、ぜえぜえと呼吸を整える。 「んだよ、洋介」 　機嫌悪そうに吐き捨てる鉄生の胸に、俺は右手で握っていたスノードームを突き付けた。 「これっ！」 　肩で息をする俺を、鉄生が怪訝な表情で見下ろしてくる。 「こんな大事なもん忘れて行くなよ！！　バカ！！」 「……あ」 　小さく声を上げると、鉄生はおぼつかない手つきで俺からソレを受け取った。 　彼の大きな手の中で、スノードームの中に舞い散る雪が、朝の陽光をきらきらと乱反射する。しばらくそれを眺めていたかと思ったら、鉄生はふっと我に返ったように鞄のジッパーを開き、用心深くしまい込んだ。 　――届けて良かった。素直にそう思えた。 「なぁにが良かった、だよ。そんな格好で、バカじゃねーの」 　俺の姿をまじまじと眺めた鉄生が、心底呆れたという風な表情で憎まれ口をたたく。……何だか彼とこんなやり取りを交わすのも随分と久しぶりな気がする。しかし、こんな場面でも俺は独り言を言ってしまうか。こりゃ一生治らないかもな。 　目的を半分果たせたため一気に肩の力が抜けた俺に向かって、鉄生は少し意地の悪い口調でこんなことを言ってきた。 「なあ、洋介。これでもうオレがお前の家に行く用事も無くなったって思わねーか？　ん？」 　だが、そのような可能性は既に想定済みだ。鉄生、お前は俺の手の平の上で踊っているに過ぎないのだ！ 　俺は不敵に笑うと、左手に持った紙袋の中身をがさごそと探り始めた。 「分かってるよ、そんなこと。でも、鉄生が勝手に置いていったものなんて、鉄生がもういらないって判断したら取りに来ないかもしれないじゃんか」 　紙袋から取り出した男物のグレーのマフラーを、俺は背伸びをして鉄生の首に結びつける。……うん、とても似合っている。まるで誂えたかのような出来栄えに、俺は大きく頷いた。 「……何だこりゃ」 「それ、こないだ買った俺のマフラー。すっげー高価なプレミアもんだから、勿体なくって今まで使ってなかったんだけどさ。でも、ちょっとの間だけ鉄生に貸してやるよ。ほら、今日死ぬほど寒いし」 「は？　そんな高ぇモン、オレは……」 　首元に手をやってマフラーを解こうとする鉄生の手を、俺は強引に押しとどめる。そして、勇気を奮い立たせてこう言った。 「大学始まったら、絶対に返せよ。誰かに頼むとか、そんなの無しだからな！！」 　鉄生はしばらくぽかんとした顔で俺を見ていたが、 「……うん。分かった、借りとくわ」 　そう言って微笑むと、再びゆっくりと歩き始めた。 「鉄生、」 　やるべきことはやった。頭では分かっていても、俺は反射的に鉄生の後ろを追いかけてしまう。 「お、そんなにオレのことが心配？」 　鉄生が肩越しにこちらを見る。 「それは……」 「オレと同じ気持ち。ちっとは、洋介も味わってみろや」 　からかうようにそう言うと、鉄生は俺を振り切って駅へと続く道を走って行ってしまった。 「じゃ、大学でな！」 　と、それだけ言い残して。