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この人が好き
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カレンダーを見て、小さな印に溜息が出る。もうすぐ僕と双葉さんの結婚記念日。相変わらず僕の発情期はやってくる気配もない。
「秋さんっ!お鍋、吹いてますよ!」
「えっ? あ、っ!…っつ」
「あら、大変!は、早く冷やしてください」
吹きこぼれる鍋の蓋を慌てて持ち上げたら、指先を火傷した。もう…、何やってるんだ僕は。
じくじくと痛む指先より、胸の奥がキリキリとする。
「あらあら、どうしましょう。痛みますか?」
「いえ。大丈夫ですよ、このくらい」
先週から月、水、金の3日、この家に通いでやって来る家政婦の有沢さんは、50代のふくよかな女性でとても穏やかで親切な人だ。
「有沢さん、ごめんなさい。僕が余計な事をしたばっかりに、心配かけちゃって」
「いいんですよ。旦那様の為にお料理がしたいなんて言われたら、私に止める資格はありませんもの」
優しく微笑んでくれる、お母さんみたいな有沢さんに癒やされる。
今日は金曜日。研究室の行程が一段落ついたので、久々に夕飯の支度をしたいと有沢さんにお願いした。献立から一緒に考えてくれて、折角ここまで上手くいってたのに…。
「僕、もうあっちで大人しくしています。後をお願いしてもいいですか?」
「それは勿論構いませんけど、秋さんはそれでよろしいんですか?」
「…はい。ゆ、指も痛いし、お任せします」
本当は僕が作りたかった。でもこれ以上、有沢さんに迷惑をかける訳にはいかない。にっこり笑ってぺこりと頭を下げた後、自室へと逃げ込んだ。
柔らかいベッドにぽふんと身を投げ、やるせなさを噛み締める。何だか僕は、結婚してからダメダメだ。何をやっても上手くいかない。
この頃はいつ双葉さんに、三行半を叩きつけられてしまうのかと、ビクビクしてしまう毎日だ。お陰でまともに双葉さんの顔も見られない。
僕が双葉さんに離婚を言い渡されたら、立花の家は、会社はどうなってしまうんだろう。不甲斐ない僕のせいで、両親にまで迷惑をかける事になってしまったら…。
そしたらもう、……生きていけない。
悲しくて怖くて、情けない事に涙が出てきた。このままじゃダメなのに…。泣いたってどうにもならないのに…。
コンコン
ノックの音と共に「入るよ」と双葉さんの声がする。どうしよう。…泣いてる所なんか見られたくない。
急いで目を擦る。ガチャっとドアを開けて、双葉さんが部屋に入って来た。
「秋。火傷をしたんだって? 見せてごらん」
「だ、大丈夫です。すぐに冷やしたし、もう痛くありません」
「いいから。見せなさい」
有無を言わせない双葉さんの言葉に、恐る恐る手を前に出す。双葉さんは僕の前に跪くと、その手をそっと握ってまだ少し赤い指先をジッと見て、それから僕と視線を合わせた。
「まだ少し赤いね。本当に痛くない?」
僕はうんうんと小さな頷きを繰り返す。口を開いたら、何だか泣いてしまいそうだったから。
「…そう。 ねぇ、秋」
呼ばれてもう一度、双葉さんの目を見た。紅茶色のキラキラした瞳に、僕が映ってる。榛色の柔らかそうな髪と同じ色の長い睫毛が、ゆっくりと閉じて、それからまたゆっくりと開いた。
「俺の為に、食事の支度をしてくれようとしたんだって?」
「っ、…」
「秋のその気持ち、凄く嬉しいよ。ありがとう」
「…ふ、ぅ、…ふぇ…」
ダメだ…。久しぶりに優しい言葉をかけられて、緩んでいた涙腺が決壊してしまった。
「ご、ごめ…なさい。…ぼく、僕…上手く、出来な、…て」
「泣かなくていいんだよ。秋の気持ちが嬉しいと言っただろう」
並んでベッドに座った双葉さんが、そっと僕の肩を抱きながら優しく諭すようにそう言った。
ああ…、僕はこの人が好きだ。
始まりは形ばかりの政略結婚だったけれど、この1年側に居て一度たりとも逃げ出したいとは思わなかった。それどころか、もっとこの人を知りたい、もっと近くに行きたい、ずっと一緒に居て欲しいと、欲ばかり膨らませている。
僕は双葉さんに嫌われたくない。だから彼の為に何かしたいと、空回りばかりしてしまうのだろう。
こんなに居心地のいい場所にいるのに毎日が不安だったのは、双葉さんに呆れられ捨てられたくないという思いがあるから。
「双葉さん。僕、僕、…双葉さんが好きです」
「…秋」
「双葉さんに、き、嫌われたくないです」
「嫌うもんか。ありがとう秋。俺も秋が好きだよ」
「ほ、ほんと?」
「ああ。大好きだ」
誂うようにそう言ってくれる双葉さん。…嬉しい。でも、きっと、これは僕の片想いだね。10歳も年下の、発情期も来ない出来損ないのオメガなんか、双葉さんにしてみたら小さな子供と一緒だもの。
「…嬉しいです」
どうせ子供なら、とことん甘えてやるんだ。
僕は双葉さんにぎゅっと抱きついた。ジャスミンの様な爽やかな、双葉さんの匂いがふわっと鼻孔を抜けていく。この匂いはどこか懐かしくて、とても落ち着く。それなのに、いつからだろう…こんなにもドキドキする様になったのは……。
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