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この人が好き

******  カレンダーを見て、小さな印に溜息が出る。もうすぐ僕と双葉さんの結婚記念日。相変わらず僕の発情期はやってくる気配もない。  「秋さんっ!お鍋、吹いてますよ!」  「えっ? あ、っ!…っつ」  「あら、大変!は、早く冷やしてください」  吹きこぼれる鍋の蓋を慌てて持ち上げたら、指先を火傷した。もう…、何やってるんだ僕は。  じくじくと痛む指先より、胸の奥がキリキリとする。  「あらあら、どうしましょう。痛みますか?」  「いえ。大丈夫ですよ、このくらい」  先週から月、水、金の3日、この家に通いでやって来る家政婦の有沢さんは、50代のふくよかな女性でとても穏やかで親切な人だ。    「有沢さん、ごめんなさい。僕が余計な事をしたばっかりに、心配かけちゃって」  「いいんですよ。旦那様の為にお料理がしたいなんて言われたら、私に止める資格はありませんもの」  優しく微笑んでくれる、お母さんみたいな有沢さんに癒やされる。  今日は金曜日。研究室の行程が一段落ついたので、久々に夕飯の支度をしたいと有沢さんにお願いした。献立から一緒に考えてくれて、折角ここまで上手くいってたのに…。  「僕、もうあっちで大人しくしています。後をお願いしてもいいですか?」  「それは勿論構いませんけど、秋さんはそれでよろしいんですか?」  「…はい。ゆ、指も痛いし、お任せします」  本当は僕が作りたかった。でもこれ以上、有沢さんに迷惑をかける訳にはいかない。にっこり笑ってぺこりと頭を下げた後、自室へと逃げ込んだ。    柔らかいベッドにぽふんと身を投げ、やるせなさを噛み締める。何だか僕は、結婚してからダメダメだ。何をやっても上手くいかない。  この頃はいつ双葉さんに、三行半を叩きつけられてしまうのかと、ビクビクしてしまう毎日だ。お陰でまともに双葉さんの顔も見られない。  僕が双葉さんに離婚を言い渡されたら、立花の家は、会社はどうなってしまうんだろう。不甲斐ない僕のせいで、両親にまで迷惑をかける事になってしまったら…。  そしたらもう、……生きていけない。  悲しくて怖くて、情けない事に涙が出てきた。このままじゃダメなのに…。泣いたってどうにもならないのに…。  コンコン  ノックの音と共に「入るよ」と双葉さんの声がする。どうしよう。…泣いてる所なんか見られたくない。  急いで目を擦る。ガチャっとドアを開けて、双葉さんが部屋に入って来た。  「秋。火傷をしたんだって? 見せてごらん」  「だ、大丈夫です。すぐに冷やしたし、もう痛くありません」  「いいから。見せなさい」  有無を言わせない双葉さんの言葉に、恐る恐る手を前に出す。双葉さんは僕の前に跪くと、その手をそっと握ってまだ少し赤い指先をジッと見て、それから僕と視線を合わせた。  「まだ少し赤いね。本当に痛くない?」  僕はうんうんと小さな頷きを繰り返す。口を開いたら、何だか泣いてしまいそうだったから。  「…そう。 ねぇ、秋」  呼ばれてもう一度、双葉さんの目を見た。紅茶色のキラキラした瞳に、僕が映ってる。榛色の柔らかそうな髪と同じ色の長い睫毛が、ゆっくりと閉じて、それからまたゆっくりと開いた。    「俺の為に、食事の支度をしてくれようとしたんだって?」  「っ、…」  「秋のその気持ち、凄く嬉しいよ。ありがとう」  「…ふ、ぅ、…ふぇ…」  ダメだ…。久しぶりに優しい言葉をかけられて、緩んでいた涙腺が決壊してしまった。  「ご、ごめ…なさい。…ぼく、僕…上手く、出来な、…て」  「泣かなくていいんだよ。秋の気持ちが嬉しいと言っただろう」  並んでベッドに座った双葉さんが、そっと僕の肩を抱きながら優しく諭すようにそう言った。  ああ…、僕はこの人が好きだ。  始まりは形ばかりの政略結婚だったけれど、この1年側に居て一度たりとも逃げ出したいとは思わなかった。それどころか、もっとこの人を知りたい、もっと近くに行きたい、ずっと一緒に居て欲しいと、欲ばかり膨らませている。  僕は双葉さんに嫌われたくない。だから彼の為に何かしたいと、空回りばかりしてしまうのだろう。  こんなに居心地のいい場所にいるのに毎日が不安だったのは、双葉さんに呆れられ捨てられたくないという思いがあるから。  「双葉さん。僕、僕、…双葉さんが好きです」  「…秋」  「双葉さんに、き、嫌われたくないです」  「嫌うもんか。ありがとう秋。俺も秋が好きだよ」  「ほ、ほんと?」  「ああ。大好きだ」  誂うようにそう言ってくれる双葉さん。…嬉しい。でも、きっと、これは僕の片想いだね。10歳も年下の、発情期も来ない出来損ないのオメガなんか、双葉さんにしてみたら小さな子供と一緒だもの。    「…嬉しいです」  どうせ子供なら、とことん甘えてやるんだ。  僕は双葉さんにぎゅっと抱きついた。ジャスミンの様な爽やかな、双葉さんの匂いがふわっと鼻孔を抜けていく。この匂いはどこか懐かしくて、とても落ち着く。それなのに、いつからだろう…こんなにもドキドキする様になったのは……。

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