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第2話

 こちらを見上げていたのは三歳年上の幼なじみ、カイル・コリーンだった。驚いた顔のユリウスは、青い瞳をいっそう深い色に染めて目を見開く。 「カイル! どうしたの?」 「お前、昼まだだろう?」  カイルがこちらを見上げながら、手に持った紙包みを僅かに揺らす。あの中はサンドイッチだろうかと想像して、胃が一気に空腹を訴えてきた。  カイルが紙包みの端を口に咥え、ユリウスと同じく慣れた手つきで木を登ってくる。その震動でゆさゆさと枝木が揺れ、ユリウスは落ちないように自分の座っている枝を掴む。カイルは隣まで来ると、咥えていた紙包みを離し渡してくる。 「ほら、腹減ってるだろ」 「そう、だけど……。どうしてカイルが持ってくるの? なんで僕が食べてないって知ってるの?」  質問をしながらもユリウスは包みを受け取った。やわらかい包みの中身はやはりサンドイッチのようである。 「ユリウスの家に行ったら、ご飯も食べずに出ていったから、いる場所を知ってたら渡してくれって、おばさんから預かった」  母のやさしさがうれしい。しかしまだモヤモヤした気持ちが晴れなくて、なんともいえない気持ちである。そう思うと、受け取ったはいいがなんとなく開けられなかった。 「食べないのか? 腹の虫の大きな声が聞こえてたけど」 「は、腹の虫なんて……いないもん」 「いいから食えよ。じゃないと俺が食うぞ」  横から手が伸びてきてユリウスの紙包みを奪おうとするので、慌ててそれを遠ざける。それを見たカイルが、ふふっと口元に笑みを浮かべ手を引っ込めた。ユリウスはのろのろと包みを開け、予想通りにおいしそうな母のサンドイッチを口へと運んだ。  隣に座るカイルは機嫌がよさそうで、遠く霞んで見えるレギーナのある方へ視線を向けていた。そんな姿をチラチラと窺う。  カイルはユリウスのお兄さん的存在だ。髪と目は漆黒で、切れ長で凜々しい顔つきをしている。ユリウスのように女の子みたいにかわいらしい部分は見受けられない。 (三つ年上なだけで、ぜんぜん違う)  カイルは今のユリウスよりも小さい頃から、剣術などを習っているらしい。それに最近は読み書きまで教わっていると聞いた。ユリウスにとってカイルは兄と慕う存在だが、それと同じくらいライバルでもあった。  カイルのようになりたい、強く賢く。  しかしユリウスの思うようにその差は縮まらない。それどころか力と知識の差は開くばかりである。背伸びをしたってそこには届かない。  このマホニアの木に初めて登るときもカイルが手伝ってくれたし、今みたいに母と喧嘩をして昼抜きになってもこうして世話を焼いてくれる。今回は偶然だとは思うが、それでもユリウスはすごいと思うのだ。  カイルはあまり喋る方ではないが、やさしく頼りがいがあり大人びて見える。同じサンドリオ村出身ではあるが、生まれはこの村ではないらしい。カイル自身も知らないようで、両親も教えてくれないと言っていた。  だがユリウスにはカイルの生まれがどこかなど関係ない。すぐ隣にカイルがいて、毎日こうしてこのマホニアの木の枝に座って話せるのが幸せなのだ。  緩やかに流れる時間を楽しみながら、カイルが持ってきてくれたサンドイッチを完食した。指についたバターを舐め取っていると、カイルが不意にこちらを振り向いた。 「食べ終わったのなら、湖に行くか?」 「うん!」  カイルの言葉にユリウスは元気に二つ返事だ。  タバナラ湖はマホニアの木の上から少しだけ顔が見えた。そこはサンドリオ村の人間なら誰でも知っている場所だ。周りは岩場に囲まれていてあまり大きくはないが、澄んだ水と一年中水温が変化しない湖である。  湖岸から大きく平らな岩が数十メール先まで続く。奥に行けば行くほど深くなっているので、おそらく大岩は斜めになっているのだろう。水深は浅くて足首ほど、深いところで二メートルくらいだ。その大岩の先はもっと深い。  美しく魚の豊富なタバナラ湖だが、村の大人は近づかない。なぜならこのタバナラ湖が「竜神が生まれた場所」と呼ばれているからである。  オシアノスのラグドリア城に住む王族の祖先は、この湖から誕生したと言い伝わっていた。真相は不明だが、ユリウスは父からそう聞かされている。  だからタバナラ湖は神聖な場所であり、何人であろうと足を踏み入れてはならないらしい。だがユリウスとカイルは大人の目を盗んでは湖に入って遊ぶ。人が近づかないので見咎められることもなかった。  二人はマホニアの木を下りて森を歩いていく。真上にあった太陽が少し傾き、森の木々の隙間から白い光が筋になり、湿った茶色の地面に模様を作った。それをリズムよく踏みながらユリウスの足は弾む。少し後ろを歩くカイルが、ときどき立ち止まっては木の実を摘んでいる音が聞こえた。 「ユリウス、そんなに急ぐなよ」 「だって、早く入りたいんだもん」  ユリウスの足はとうとう小走りになる。そうして湖までやってくると、着ている服をバサバサと脱いでその辺に落としていった。一糸纏わぬ姿になり湖岸まで走っていくと、水の手前でピタッと止まる。そっとつま先から入水し、そのままゆっくりと体を水に沈めていく。 「うわ、冷たいっ」  夏が近いとはいえ、まだ水遊びができるほど暖かいわけではない。ブルッと体を震わせるも、ユリウスは水の中に頭の先まで沈める。 「いつもそうだな、ユリウスは」  カイルのぼやきなど水中のユリウスには聞こえない。水の中で頭を思い切り振って染料を落としていく。真っ黒い染料はあっという間に水に溶けて周囲が濁る。しかし瞬く間に濁りが霧散していく。不思議な力で浄化されていくように思えた。

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