3 / 6
第3話
「カイル!」
ざばっと水から顔を出したユリウスは頭を振って水滴を飛ばした。そしてニコニコしながら髪を少し摘まんで見せる。染料が落ちた髪は本来の金色を取り戻し、陽の光に照らされてキラキラと輝いていた。
「綺麗だな」
ようやく湖岸にやってきたカイルがやんわりと微笑んだ。あまり笑顔を見せないカイルが笑うのがうれしくて、いつも足が急いて先に湖へ入ってしまう。
染料が落ちたユリウスの髪は、いやな臭いも消えている。家で頭を洗ったときは染みついて取れないのに、なぜかこの湖で洗い流すとなくなってしまうのだ。
(ここの湖って、やっぱり竜神様の力があるんじゃないかな)
ユリウスはカイルがこちらを見ているのに気づいてニッコリと微笑んだ。まるで魚が飛び跳ねるように水中へ飛び込み、深く潜って濁りなく美しい景色を眺める。両脚を揃えてそれを上下に何度か掻く。両手は体の横にピタリとつけて、行きたい方向へ頭を向ける。この泳ぎ方はカイルに教えてもらった。水を怖がるユリウスは苦戦したが、どうしてもカイルと同じように泳ぎたくて頑張ったのだ。
水中で仰向けになり、陽の光を反射させる水面を見上げる。すると魚たちがユリウスの周りに近寄ってきた。挨拶でもするかのように指先を突いてくる。もっと遊びたかったが、息が続かなくなり水面に顔を出した。
「ぷは! あ~苦しかった」
「ユリウスは魚と遊ぶのが好きだな」
「うん。かわいいからね。ここの魚はみんな色とりどりでみんな綺麗で大好き」
お前の方が綺麗だと思うけど、とカイルが呟く。ユリウスは照れくさくて聞こえなかったふりをしたが、頬がじわっと紅潮した。
水辺の岩に座っていたカイルが腰のベルトを外し、チュニックの上着を脱ぎ始めた。湖に入るのだなとわかったが、布の下から現れた自分とは違う逞しい体に見惚れてしまう。カイルだってまだ子供だ。それなのに骨張った骨格に乗る筋肉はユリウスのものとは全く違っていた。
全裸になったカイルが、岩場から深みの方へ綺麗な弧を描いて飛び込んだ。水しぶきが上がってしばらく静かになる。かなり離れた一番深い場所からカイルが顔を出した。
「すごい! そんなところまで行けるの?」
「ユリウスも来いよ!」
こちらに向かってカイルが手を振り、元気な声が周りの岩にこだまする。ユリウスは水中に潜りカイルのいる場所を目指す。そこはかなり深いが平気だ。立ったまま泳ぐ方法もカイルに教わった。ユリウスにはできないことがカイルは全てできる。すごいな、とユリウスは思うのだった。
しばらく湖で遊んだあと、カイルがアシアの実を磨り潰しユリウスの髪に塗ってくれる。この時間はうれしいけれども反面、憂鬱になる時間だった。
「僕この臭い嫌いだな」
「俺も好きじゃない」
「だよね」
岩場に座るユリウスの背後で、木製の器に入った黒いドロッとした液体をカイルが髪に撫でつけている。カイルの手も黒くなるが、それはこの湖で洗えば問題ない。ユリウスはまた暗い髪色に戻るのが憂鬱でしかたがなかった。
「俺もユリウスの金の髪が好きだ。さらさらでキラキラしてて綺麗だからな」
「僕もその方がいい。どうして僕だけこんな見た目で生まれたの? カイルと同じがよかった」
ユリウスの髪を触っているカイルの手が止まった。きっと困らせている。そんなどうしようもない質問をして、また言ってしまったと思うがもう遅い。
「そうだな。不便かもしれないけど、この場所でユリウスの本当の姿を知っている俺は、特別な感じがしてうれしいけど」
二人だけの秘密、カイルはそう言っている。その言葉に照れくさくなったユリウスは黙り込んだ。一気に頬が熱くなり、今顔を見られたらきっとからかわれるだろう。
「ユリウス? 聞いてる?」
「うん……聞いてるよ。髪、してくれて、ありがとう」
「なんだよ、急に……。いつものことだろ?」
ここで金髪を見られるのが特別だとカイルは言うが、こうしてまた黒く染め直すのは面倒だ。ユリウスがこの黒髪を嫌っているからカイルが付き合ってくれていると思っていた。
(カイルはやさしいな)
こんな手間な作業をほぼ毎日やってくれるなんて本当にすごいことだ。ユリウスの母でさえ、髪を黒く染めるのは大変そうなのだから。
「僕、夢があるんだ」
照れているのを知られないようにと、ユリウスは口を開いた。背後のカイルが「ん?」と小さく返事をする。
「もっと大きくなったら、きっと父さんも母さんもレギーナへ行かせてくれると思う。そのときはカイルと二人でアーシャン通りを歩いて騎士団のパレードを見る」
それが僕の夢だよ、とユリウスは後ろを振り返る。見上げたカイルの顔はなんだか寂しそうに見えた。きっとカイルも楽しみだと言ってくれると思っていたのに、欲しい返事はなかった。
振り返ったユリウスの頭は、カイルの手でグイッと正面へ向かされる。
「カイルは、街には行きたくない?」
「いや、二人で行けたら楽しそうだな」
「そうでしょ! ねえ、じゃあカイルの夢はなに?」
思いついたままそう尋ねる。ユリウスの髪を撫でるように動いていた手が止まり、歯切れの悪い返事が聞こえた。
「俺は……別にない」
「え? 嘘でしょ?」
ユリウスはまた背後を振り返る。今度はカイルが照れているようだ。そんな顔は初めて見るので、ユリウスはまじまじと見つめてしまった。
「笑わないか?」
「笑わないよ! 言って! 僕、聞きたい」
逡巡したカイルの唇がゆっくりと動く。
「……ラグドリア騎士団に、入りたいんだ。強くなって騎士団に入ったら、ユリウスを守れるから」
「騎士団!? すごい! すごいねカイル!」
ユリウスはとうとう体ごとカイルの方を向いた。その反動で毛先から黒い飛沫が跳ねる。首筋や肩にはアシアの黒い雫がいくつも筋になって流れていった。
「ユリウス、ちゃんと前を向いて」
「あ、ごめん。でもすごいなー騎士団。騎士団かぁ。カイルなら絶対に入れるよ。だってすごいもん」
「すごいってなにがだよ」
背後でカイルの声が弾んでいる。笑っている顔が見たくて振り返ろうとすると、それを察知したカイルに頭を両側からグッと押さえられた。動くなということだ。
「だってだって全部がすごいから」
なにがどうすごいのか、今のユリウスには表現できる最大の単語は「すごい」だった。その中に全てが集約されている。
カイルが騎士団に入り立派な騎士になって活躍する姿を想像した。けれどユリウスが知っている騎士団は、父から聞かされている情報のみだ。一度もその騎士の姿を見たことがない。だからユリウスにとってカイルが神様にでもなるかのような話だった。
ユリウスの髪を黒く染め上げる間、カイルが騎士団に入ったら、という夢のような話が止まらなかった。体格に恵まれ運動神経もよくて才能のあるカイルなら、騎士団に入るのはただの夢で終わりはしないだろう。その頃にはユリウスも街に自由に行き来でき、カイルの勇姿を街で見られる。そんな想像に胸を躍らせ、お喋りなユリウスの口は止まらなかった。
ユリウスはカイルが好きだ。兄のように頼りがいがあり友人として遊べるカイルと、大人になってもずっと一緒にいたい。しかしカイルが騎士団に入ればきっと離ればなれになるだろう。想像すると寂しくもあったが、もしかしたら夢は夢で終わり、二人とも家の仕事を父から引き継いで年老いていく未来があるかもしれない。未来はいつだって未知数なのだ。
八年後にその結果が示されるなど、ユリウスは想像もしなかった。
ともだちにシェアしよう!