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第4話
◆ ◇ ◆
その日、母から預かったアップルパイをバスケットに入れ、ユリウスの足はカイルの家へと向かっていた。八年前の五歳のユリウスなら十五分以上かかっていた道のりも、十三歳になった今はその半分くらいの時間で到着できるようになった。
緩やかなカーブを曲がった先、小高い丘の上にカイルの家が見える。家の前にある庭で小さく人影が動いていた。近づくにつれてそれがカイルだと気づく。
(素振りしてるんだ)
カイルは上半身を外気に晒し、両手で木刀を握り締めて何度も振り下ろしている。声が届くくらい側に近づいても、カイルの集中は途切れない。ぶんっ……と木刀が空を切り裂く音がする。それと同時に、きらきらと汗の飛沫が散った。
ユリウスはまじまじとカイルの姿を眺める。男らしく盛り上がった胸板は、そうなりたいとユリウスが憧れているそのものだ。振り下ろす腕にも陰影ができるほど筋肉がついて逞しくなっている。惚れ惚れするようなカイルの体を、しばらく眺めてしまう。
そしてユリウスは自分の出生について思い出していた。
母はユリウスを身ごもって数カ月後、謎の病に倒れた。高熱が下がらずどんな薬も効果はなかったという。そんなユリウスの父は、近づくことも許されない神聖な湖、タバナラの水を汲み、最後の望みを託し母に飲ませたのだ。
その数日後、母の体調はみるみる回復し、なにもなかったかのように元気になった。まさに奇跡の湖だと喜んだが、生まれてきたユリウスの姿を見て、神湖を冒涜した罰が下ったと思ったらしい。ユリウスは自分の特異な見た目について、両親から本当の話は聞かされなかった。だがある夜に母が泣きながら父に話しているのを、不本意にも聞いて知ってしまった。自分の見た目が人と違うのは、タバナラ湖の水を母が飲んだからだと。知ったところで今さら両親を責める気にはなれない。誰かを責めてもこの見た目が変わるわけではないからだ。
ぶんっという音が途切れて我に返ると、カイルがこちらを振り向いていた。
「ユリウス、そんなところでなにしてるんだ?」
「あ、ああ! えっと、これ、ほら、母さんが持っていけって。お使い頼まれちゃって」
へへへ、とユリウスが照れ隠しで微笑むと、手の甲で額の汗を拭ったカイルの口元もふっと緩む。
「そうか。いつからそこにいたんだ?」
「今来たところだよ。カイルが素振りしてるな~って見てたんだ」
「なんだ、じゃあちょっと前からいたんじゃないか」
木の柵にかけてあったタオルを取り上げ、カイルが首筋の汗を拭く。そのしぐさが妙に色っぽくてどきっとしてしまい、ユリウスは思わず視線を逸らしてしまった。
十六歳のカイルはグッと大人びていて、子供っぽいユリウスとは桁違いに成長していた。手足が長く身長もグンと伸びたカイルは、ユリウスが見上げるほどだ。黒い髪は腰の辺りまで伸び、いつもひとまとめに縛っていた。ときどきユリウスが梳くのだが、手触りはやわらかく気持ちがいい。
顔つきもずいぶん変わった。幼さの抜けた精悍な面持ちは、まるで騎士のような殺気すら感じられる。どきっとさせられたのはこれで何度目だろうか。切れ長の黒い瞳で見下ろされるとなぜかユリウスの鼓動が速くなる。
(三歳の差って、ずっと埋まらないんだろうな。僕とはぜんぜん違う)
ユリウスだって大人っぽくなったはずだが、カイルに剣術を教わっても全く筋肉がつかなかった。色白で骨張った細い体は、カイルと並べば女性と勘違いされそうなほどだ。
顔つきも変わったといえば変わったが、金髪と青い目が優雅さを漂わせ、男らしさの欠片はそれで相殺される。もともと垂れ目でやさしい顔つきのユリウスだったが、大きくなれば男らしさも出てくると信じていた。しかしその片鱗は影もない。
「これ、母さんがどうぞって」
手に持っていたバスケットをカイルへ差し出す。覆っていた布に顔を近づけたカイルが、いい香りだな、と声を弾ませる。これはカイルの好物だ。
「うん。リンゴがたくさん取れたから、母さんがいっぱい焼いたんだ」
「悪いな」
「ううん。パイ作りは母さんも好きだから気にしなくていいよ」
バスケットをカイルに渡しながら顔を見上げる。子供の頃から表情豊かではないカイルだったが、このアップルパイを見ているときは瞳がきらきら輝く。それを見るのが好きでこれを渡すときはユリウスの気持ちも高揚する。
「剣の練習、熱心だね」
バスケットを手渡したユリウスは手持ち無沙汰になり、近くの柵にもたれかかって腰ほどの高さのある草の先をいじる。
「ああ、ユリウス、お前に言わなくちゃいけないことがあるんだ」
カイルの視線は手の中にあるバスケットへ落とされている。長い睫毛が瞳の表情を隠し、ユリウスはどことなく不安になった。先ほどとは違う沈んだ声も気になる。
「な、なに? カイルにそんな改まって話がある、なんて言われると緊張するよ」
動揺を隠すように笑顔を作ったが、それはぎこちなくなり心拍数が上がってしまう。
「ずっと言おうと思ってた。でもユリウスが言いそうな言葉が予想できて言い出せなかった」
「僕がどう答えるかなんて、聞いてみないとわからないよ」
ユリウスの嫌な予感はますます大きくなっていく。悪い知らせを焦らされているようでいやだった。
「そうだな。考えすぎないで打ち明ければよかった」
「で、なに?」
「ああ……」
カイルがユリウスの隣に移動し、同じように柵へもたれかかった。視線はどこか遠くを見ていて、そんなカイルをユリウスは瞬きもしないで見つめた。
「俺さ、ラグドリア騎士団に入ろうと思うんだ」
カイルの口調はまるで、アップルパイが好きなんだ、というような感じだった。ユリウスはすぐに意味が把握できず、時間が止まったような錯覚に陥る。瞬きを忘れて数秒、間抜けなほどの「え?」という自分の声にはっとした。
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