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第3話(佳人)

 それから一カ月ほど経った頃のことだった。  とっくにお笑いライブのことも忘れ仕事に明け暮れていた佳人は、やっと取れた休日、買い物に出た先の街で、不動産屋の前にいた。今借りている部屋の契約更新が迫っていたのだ。更新か引っ越しか、佳人はまだ決めかねていた。  単身者向けにしては広い1LDKには、前の恋人との記憶が染み付いている。同棲していたわけではない。給料の主な使い道が家賃だった佳人の広い部屋に、恋人がよく訪れていたのだ。彼との交際が始まってすぐ、元々買い替えるつもりだったからと、ダブルベッドまで用意した。こういうところが重いといわれる要因なのだと思うと、そのベッドすら捨てて心機一転したくなるものの、住み慣れた部屋と思い出をいっぺんに手放す踏ん切りがつかない。 (引っ越すなら、今より少し狭い部屋の方がいいのかな……物も少ないしな――)  思い切りがつくような、程よい部屋が見つかってくれれば。そう思いながら、店のガラスに張り出された物件案内を眺めていた時だった。  隣で同じように物件を見ている長身の影がある。  何気なくその顔を見上げて驚いた。 「仙川太一……?」  思わず零した声に、横顔が振り返る。  額にかかる、左右に分けたやや長めの黒髪。困り眉と釣り目、口角の上がった唇と、そこから覗く小さな八重歯。猫のように愛嬌のある顔は、あのステージで漫才を披露していた男に似ていた。  ただ相手は驚いたように目を開いたまま何も言わない。人違いだったかと思い、「あ、すみません」と訂正しかけた時だった。 「え、俺のこと、わかるの!?」 「あぁ、ごめんなさい。その、突然声を掛けてしまって」  人違いにせよ本人にせよ、いきなり声を掛けるのはマナー違反だろう。しかも名前の呼び捨てだ。しかし本人は気にする様子はなく、「えー! ありがとうございます!」と張りのある声を跳ね上げた。 「あ、あの、仙川さんご本人……?」 「はい! 俺です!」  俺です、という元気な返答が面白くて思わず吹き出すと、「やった笑った!」と嬉しそうに仙川は歯を見せた。 「すみません、突然。気づいてしまったんで、つい声が出てて。本当は駄目ですよね、こうやって道端で声を掛けるのとか……」 「あー、まぁよしたほうがいい場合もあるかもだけど。でも俺は街で声掛けられたこととかないから嬉しいっす! 何で知ってくれてたんですか?」  いくつか、彼が出演していたらしい番組名を挙げられた。しかし彼を知ったのは最近だ、当然観た記憶がない。これは申し訳ないなと思いつつ、自分から声を掛けた手前、曖昧に誤魔化すわけにもいかない。何より、声を掛けられたことをこんなに喜んでいる彼をがっかりさせたくないと思った。 「あぁ、いや、テレビじゃなくて。実は、先月の事務所のライブを観て、それで、印象に残っていたというか」 「えっ」  またも彼は目を丸くした。どうやら感情が素直に出るタイプのようだ。二十代半ばらしいけれど、二十歳そこそこに見える。  あぁ、やはりテレビでの活躍を取り上げてあげたほうがよかったのだろうか。ネタを作っているのはこの太一らしいから、ライブの感想は喜ぶかと思ったんだけど。彼の反応に、慌てて「印象に残ったから――配信とかSNSとかも見たよ」と付け加えた。 「つまり――すごく笑ったよ、面白かった」 「どうしよう」 「え?」 「すっげぇ嬉しい……!」  仙川太一は、きらきらと光って見えるほど顔を輝かせた。 「先月の事務所のライブって、引っ越しのネタでしたよね? いやーあれ結構自信があって……って、引っ越しですか?」  ふいに話を振られて佳人は戸惑った。 「あ、まぁ、どうしよかなと迷ってて。もうすぐ契約更新だから。仙川さんも?」 「ううん、俺は物件情報見るのが好きなんです! なんか夢膨らむじゃないですか。いつかこんな部屋住んでみてぇなって」  引っ越しなどというプライベートなことを芸能人に聞くのは不味かったかと思ったが、仙川はあっさりと答えた。そういえば、芸人はテレビで時々名前を見掛ける知名度の人であっても、ルームシェアをしている場合が多いらしい。想像以上に、生活していくことが大変なのかもしれない。  そんなことを思うと、不動産屋の前で夢を膨らませるこの若い子がどうにも不憫なようにも、それでいて眩しいようにも思えた。 「なんか、引っ越しのネタで俺のこと知ってくれた人と不動産屋の前で会うって不思議な感じっすね」 「あぁ、確かに、そうかもね」  その時、二人の間に腹の虫の音が響いたのは転機だったのかもしれない。仙川太一は肩を竦めて照れたように笑った。 「腹減った。よかったら昼飯、どうですか?」  どうして断らなかったのだろう。  目の前でにこにことカレーを頬張る仙川を見ながら、この非日常過ぎる状況に佳人は混乱し続けていた。  いくら少し会話が弾んだとはいえ、それは仙川による一方的なものだ。そんな初対面の相手を、気さくに食事に誘うものなのだろうか。やはり芸人だから明るい性格なのかもしれない――と思ったけれど、これは芸人だからというものではなく、彼自身の性質だろう。  予想外過ぎる申し出に面食らっている間に、彼がおすすめだというカフェレストランに連れてこられてしまった。木製の店内にカラフルな布張りのソファが並んでいる広々とした空間は、一人だったら絶対に入らない場所だ。こういうところは雰囲気だけなのではないかと思いきや、料理も本格的で美味しいらしい。特にカレーがおすすめなのだと仙川は楽し気に話した。 「こんなふうに、たまたま話しかけた人と飯に行ったりするの?」  気になっていたことを思わず聞いてしまった。  仙川はスプーンを口に運ぶ手を止めて、なぜか気まずそうに視線を逸らし「あぁ、いや」と口ごもった。 「なんか、テンション上がっちゃって。七井さんはたまたま見てくれただけってことだったのに、勝手にファンだと思っちゃったから……あっ、もしかして迷惑でした!?」 「そんなことはないけど」  席についてから、一応の自己紹介はした。一時とはいえテーブルを挟むのだから名乗らないわけにはいかない。ただの会社員だと伝えたら「すげぇ、大人って感じ!」と仙川は大袈裟なリアクションをする。「七井佳人」と名乗ったときも、「七井? セブンスラッシュの七じゃん! やっぱすげぇ偶然!」とはしゃいでいた。跳ねるボールのような元気な様子は見ていて飽きない。だから、決して迷惑などではなかった。 「ファンになってみたいなとは思ってたよ」 「なってみたい?」 「うん、ライブのあと、検索したりはしたんだ。だけど君たちって、SNSとかあんまりしていないよね?」  そう言うと、「あ~!」と悔し気に仙川は頭を抱えた。 「そうなんすよ! アカウントは持ってるけど、日常を呟いても面白くないかなぁと思うと何していいかわかんなくて。だって俺、そんなにテレビ出れてないし、日常ってバイトばっかだし」  彼は想像通り、バイト中心で生計を立てつつ、オーディションを受けたり地方の営業に回ったりといった日々を過ごしているらしい。忙しい毎日の中、今日はたまたまの余暇だったという。 「あ! でも、事務所のアカウントが出演情報とか告知してくれるんで! よかったらこっちフォローしてみてください!」  所属事務所のお笑い部門のアカウントを見せられる。そのまま素直にフォローすると、「あのぉ……」と仙川は距離を詰めるように身を乗り出した。 「え、なに?」 「そのアカウント、ちょっと遡ってもらうと、ライブのお知らせがあると思うんですけど……」  言われた通りに見てみると、先日行った事務所主催ライブの新たなお知らせが載っている。出演者は前回よりも絞られていて、その中にセブンスラッシュの名前もあった。 「来てほしいってこと?」 「え! いいんすか!」  ぴょこん、と弾けるように顔を上げる。長身の男が急に動くものだから佳人は思わず身を引いた。この仙川太一という男、すらりと背が高いだけではなく、よく見れば顔立ちもすっきりと整っている。パーツが小さいので派手な印象はないものの、その分、よく動く表情の変化がわかりやすい。それが、つい初対面で飯に付き合い、ライブに行く約束をしてしまう愛嬌の大きな要素の一つだった。 「うん。今ってチケット持ってる? 買うよ」  佳人の申し出に、仙川は飛び上がるほど喜んだ。今思えば、彼にとってこの食事は、営業機会の一つだったのかもしれない。だから妙にしおらしい態度を取っていたのだろう。  ただ――罪悪感は佳人の方がずっと大きかった。  彼らの漫才に感嘆し、笑わせてもらったのは事実。ファンになれたら嬉しいと思い少し調べたのも本当のことだ。  ただ、今こうして声を掛けたのは、もっとわかりやすい――いわゆる下心だったことを認めざるをえない。どうこうなれるなんて思っていたわけではない。ただ、この可愛い男にもう少し近づくことができれば――と、日常に少しの刺激を求めるような、ささやかなドラマを期待していた。  別れ際に駄目元で「今後も何かあったら教えてよ」と名刺を渡すと、すぐに連絡が来た。彼はまだ仕事用の端末を持っておらず、つまりプライベートスマホと繋がったということだった。 (浮かれるな、浮かれるなよ、俺……)  そう自分に言い聞かせながらも、その日佳人は、朝まで眠ることができなかった。

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