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第6話(佳人)
「七井さん、大丈夫ですか?」
声を掛けられてハッとする。後輩の小野が、隣から顔を覗き込んでいた。
「あ、ごめんごめん。ぼんやりしてた」
「珍しいですね、七井さんがぼーっとしてるって。大丈夫ですか?」
誤魔化すように笑って「なに?」と話を振ると、「パーティーのタイスケ、昨日の会議の修正反映してみたんですけど、チェックお願いしていいですか」と言われた。目の前のディスプレイに目を戻せば、確かに彼から添付ファイルが届いている。
「うん、わかった。すぐ確認するよ」
「それにしても、総務人事ってこんな大変なことしてたんですね」
小野は、昨年異動してきたばかりだった。花形の営業で数年活躍していた熱意ある若手社員としては、地味な印象のこの異動にいまいち納得できていないらしい。
「採用の説明会とか、研修とか、そういう表に立つところしか社員の皆からは見えないからね。実際は調整ばっかりだよ」
「会社の創業三十周年パーティーなんて、全部外注かと思ってました」
「そうはいかないよ。会社のビジョンに合わせたコンセプトや、目的にそった企画構成は、やっぱり大本を理解している社内の人間がやらないと」
「七井さんはほんと、すごいなと思います。抜け目ないというか。しっかり者って感じですよね。部屋とかも綺麗そうだし」
「どうだろう。下の兄弟がいたからかな」
佳人には弟と妹が一人ずついた。少し年齢が離れていたので、子どもの頃は共働きの両親に代わり面倒を見たことがある。家事もその時期に覚えた。
「あぁ、でも料理は苦手なんだよなぁ」
「へぇ、意外です」
多分、味や見栄えへのこだわりが少ないからだろう。形になるものは作れるものの、どれもこれもぱっとしない。すべてが同じ調味料の味になるタイプだった。
その点、太一は違っていた。彼は彼なりの美意識をもって、見た目も味もいい料理を作ってくれる。佳人の部屋のキッチンに立ち、「コンロが二口じゃ足りない。三口はほしかった」と文句をいいつつ料理をしている姿が好きだった。軽薄な調子と器用で繊細な手付きに最初はギャップを感じて、どうして覚えたのか聞いたことがある。実家が貧乏だったからかなぁと答えになっているのかいないのか曖昧なことを言って、太一はへらりと笑っていた。
「ま、料理苦手でもいいじゃないですか。忙しいと自炊する時間も取れませんし」
「本当にね。少なくともこのプロジェクト終わるまでは落ち着かないだろうな」
「いいや、七井さんはきっとこの先も忙しいですよ。主任のままプロジェクトリーダーやってますけど、絶対次の辞令で課長昇進ですから」
そういえば辞令の時期か。契約更新に辞令に、節目が重なる季節だ。かといって、自分自身の何かが変わるわけではない。小野は抜け目がないと言ってくれたけれど、先程だって仕事中に恋人とのことを考えてぼんやりしていたし、結局、他に打ち込めることがないから目の前のことに振り回されるしかないのが自分なのだと佳人は思っている。
「俺は、やることをやるってことしかできないからさ」
「七井さん、ほんと周りからの評価に疎い」
「え?」
その時、机上に置いていた社内スマホが振動する。礼儀正しいのにどこか無遠慮な後輩は、佳人より先に画面を見ると「七井さん、有坂部長! やっぱり内示ですって!」と声を落としつつ佳人をせっつく。わかったわかったと手で制して、耳に押し当てた。
「……はい、はい。わかりました。ありがとうございます、失礼します」
「やっぱりそうでした!? 七井さん課長昇進?」
「内緒」
開示日までは言えない決まりなので建前上そう答えたが、うっかり隣で受け答えをしてしまった上に、佳人の表情を見れば答えは明白だろう。はぁ、と大きな溜息を吐くと、なぜか小野は嬉しそうに小さくガッツポーズをした。
「なんで俺より君が嬉しそうなんだよ」
「だって、七井さんが僕の上司になるの嬉しいですよ」
「まだ何も言ってないんだけどなぁ……言いふらさないでよ」
「わかっていますよ。でも七井さん、なんでそんなに落ちてるんですか。めでたいことでしょ、昇進って」
営業出身の彼にとってはそうらしい。晴れやかな顔が眩しかった。責任も仕事も増え今以上に忙しくなることへの憂鬱は勿論あった。しかしそれ以上に佳人が気になっていたのは、電話先で部長に言われた言葉だ。
「……あのさ、俺の下で仕事してて、やりづらかったりすることない?」
そう尋ねたら、小野はぽかんとした顔をした。
「もしかして、部長に何か言われたんですか?」
「いや、そういうんじゃないんだけど。上司になるの嬉しいって言ってくれたから、どう思っているのか聞きたくて」
どうやら彼は、仕事に不満を持ちつつも佳人のことは好いてくれているらしい。だからこそ率直な意見を聞けるのではないかと思った。予想通り、小野は真面目な顔をして「やりやすいですよ」と答えた。
「ただ、やりやす過ぎてやりづらいですね」
「というと?」
「七井さん、結構自分で仕事巻き取っちゃうじゃないですか。僕たちに仕事を振ってくれても、それはパーツなことが多い。もう少し任せてくれていいんですよ……って、七井さん?」
思わず佳人は頭を抱えた。それは部長に指摘されたこととほぼ同義だったからだ。
――これからは、もっと相手に任せて。自立を促すことも大事な役割になるんだからね。
それを、一緒に働く小野自身が感じていた。
だとしたら、生活の多くを共にしていた太一はどうだろう。あの時――まだ続けてみたらと提案した時に戸惑う表情をしていたのはこれが理由なんじゃないだろうか。
彼が部屋に訪れる度に、佳人は当たり前のように食と住の世話をしていた。太一自身も甘えているところがあったし、甘えられることが嬉しかった。でもそれは、太一の自立を阻んでいたのかもしれない。
――いや、そんなことにはとっくに気づいていた。気づいた上で、そうやって太一を独占することに喜びを感じていた。
太一はきっと、それでは駄目だと思ったんだ。
甘えを断ち切るには芸人を辞めたほうがいい。佳人に依存しながら芸人を続けていても自分の足で立つことができない。
そうして、変化を起こそうとしている。いつも可愛いばかりだった年下の恋人が。佳人よりもずっと、自覚的に、変わろうとしていたのだ。
「……俺は駄目だ」
「え!? すみません、言い過ぎました!?」
頭を抱えた佳人に小野が慌てる。大丈夫、と首を振った佳人は、パソコンに向き直った。
「……送ってくれた修正案だけど、具体的な部分を詰めて。部長への報告と関係役員への説明も、小野くんがやってみようか」
「いきなり任せてきましたね!」
無茶振りをし過ぎたかと思ったが、小野は快活に笑った。
「ありがとうございます、任せてください」
「頼りにしてるよ」
そう言ってから、罪悪感のようなものが胸を焼く。
太一のことを頼ったり、それを言葉にして伝えたことがあっただろうか。
次に会った時には必ず伝えようと佳人は誓った。
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