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第7話(太一)
「七井さん、おかえり!」
元気に挨拶をした太一は、リビングに現れた佳人がにやりと笑ったのを見て自分の間違いに気が付いた。
「あ、まちがえた。佳人さん……!」
「呼び捨てでもいいって言ってるのに」
「それはなんかさ、違うじゃん。佳人さんは、俺より六つも年上なんだし、ちゃーんと社会人なんだしさ」
「社会人ってのは関係ないよ。ちゃんとも何もない」
ネクタイを緩めてジャケットをソファの背凭れに掛けた佳人は、台所に立つ太一の背後に回って手元を覗き込んだ。
「いい匂い」
「でしょ!? 俺特性の味付けで煮込んだチキンのトマト煮と、こっちはポテトサラダなんだけど、こないだ佳人さんに買ってもらった美味いオリーブオイルと岩塩かけた」
「へぇ、美味そう」
静かに離れた佳人は、冷蔵庫からビールを取り出した。付き合いだして最初の頃は、一人の時の癖で冷蔵庫を開けては、太一に遠慮して気まずそうな顔で扉を閉めていた。
そんなこと気にしないでほしいと伝えたのは太一だ。家主は佳人なのだから自由に振る舞えばいい。それに、太一は佳人が自分の目の前で一杯を飲み、一日の重圧から解き放たれたように緩んでいく姿を見るのが好きだった。
ぷしゅ、とプルトップを上げる音。リビングのソファにもたれた佳人は、その細い体を投げ出してちびちびと口元に缶をつけている。だらけた格好には違いないのに、色素が薄く小づくりな顔をした佳人が飲んでいる姿は、どこか上品で優雅にすら見えることがあった。
自分の知らない、社会人という存在。中でも佳人は優秀なのだろうということは生活ぶりから察しがつく。結局あの不動産屋の前での出会いから、佳人は引っ越しをしなかった。もう少し狭い部屋に移ることも考えていたらしいけれど、太一が訪れるようになるのならとそのまま居残ることを決めたらしい。
この1LDKの城は、太一の借りている築三十年のアパートとは天と地ほどの差があった。ただ、そのことに引け目や嫉妬はない。この人の恋人でいられることが誇らしかった。
「太一」
「ん?」
「明日は、定時出社でいいんだ。家を出るのは、八時前かな」
いつもはそれより一時間以上は早く出る。わざわざ時間に余裕があることを伝えてきたということは、つまりそういうことだ。
「やっば、すげぇ嬉しい」
「あんまり張り切るなよ。俺、お前の若さについてけないよ」
「いやいや佳人さんだってまだ三十一でしょ、現役じゃん」
もう肉は十分に柔らかく煮えた。火を止めた太一はエプロンを外しながらソファに回り込んで、佳人の手元からひょいとビール缶を奪った。
「あ、かえせよー」
輪郭のないゆるゆるとした声。今日はアルコールが回るのが早いのかもしれない。それも当然だ。時刻は二十三時。いつも残業があるという佳人だが、今日はその中でも特に遅い。
抗議するように尖った唇に唇を重ねる。覆い被さり密着したキスは、互いの体温を交換しあったみたいだった。
「お疲れ様。無理しないで、寝てもいいよ?」
そう言ったら、佳人は小さく首を振った。
「やだ」
子どものように稚拙な言葉を使いだす。これだけで、太一はたまらない気持ちになる。この人のこんな面を、他の誰が知っているのだろう。
「太一の飯も食べたいし、太一にも、さわりたい」
「……へへ、よかった。おれも」
今度は引き寄せられて口づけられる。始めは戸惑ったキスも、同性を抱くという行為も、今では昔から知っていたように体に馴染んでいる。もう忘れることも手放すこともできない。心地よい体温の中で、太一はそんなことを思った。
そもそも、どうして最初に声を掛けたのだろう。太一はそれまで異性との恋愛しかしてこなかったし、芸人になってからはそれも縁遠い。芸能人の面白い男なんてモテそうなものだが、それは売れているごく一部に限られる。このご時世、誰も不安定な根無し草に惹かれたりはしない。
「よかったら昼飯、どうですか?」
佳人にそう声を掛けた時、打算があったことも否定できない。自分たちのネタを初めてライブで観てくれた人――つまりそれはテレビによる先入観がなかった人だ。この人なら適格に感想を伝えてくれるかもしれない。そしてあわよくば、次に控えていたライブのチケットを買ってもらおう、と。
でも――愛し合う関係になった今ならわかる。
佳人は綺麗だった。
陽の光の下で見た佳人の髪は薄く透けて見えた。後に色素が薄い方なのだと聞いた通り、肌は白く瞳の色も陽を吸い込んだような柔らかい飴色だ。その、どこにいても自然に溶け込めるような存在は、常に何者かになりたくてなれなくて抗ってきた太一にとって、稀有なものに違いなかった。
次のライブにもちゃんと足を運んでくれた佳人。忌憚ない感想を聞きたいからと更に次の約束も取り付けて、そんなことを繰り返すうちに、これまで恋愛対象ではなかった同性の佳人に、どんどん惹かれていくのを感じた。
自分の知らない世界を知り、自分と違う目を持ち、新しいことを語る佳人といると楽しかった。そんな佳人が、自分の作ったものと共鳴してくれたことが嬉しい。
「――すごく笑ったよ、面白かった」
出会った最初にくれたこの言葉は、ずっと、太一の心を灯すように光り続けていた。
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