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第8話(太一)

 そんな非日常のドラマも、次第に日常になっていく。佳人と出会ってから三度目の漫才コンテストは、昨年同様、準決勝敗退。「面白かった」という佳人のメッセージに、結局太一は返事ができないままでいた。 「芸人辞めるって、考えたことある?」  打ち上げとして訪れた個室居酒屋の一室。ウーロン茶の入ったジョッキを傾けていた目の前の相手は、動きを止めた。  それは、単なる〝少し真剣な雑談〟で片付けることのできない問いだった。だからこの話題を振った時点で、一つの告白をしたに等しい。それは言った太一も、聞いた松山陸もわかっていることだった。 「……お前それは」 「今回のことだけじゃない。前から考えてた」 「前からって……営業とかオーディションとか、その合間にみっちりやったネタ合わせの最中も、そう思ってたのかよ。それで、準決勝出たわけ?」 「――陸の思ってる意味じゃなくって。負けたら、考えなきゃいけないって気持ちで。覚悟してたっていうか」  断言しきれない曖昧な言い方では誤魔化せない。それくらい長い間、自分たちはコンビとしてこの場で戦ってきた。 「今日は疲れてるだろ。ちょっと落ち着いてから考えようぜ」  黙っていれば一般企業のサラリーマンに見える固い見た目の男は、動揺を落ち着かせるようにメガネを外してハンカチで拭った。 「……陸はさ、美冬ちゃんとどうなの」 「今それ関係あるかよ」 「あるだろ、こないだも言ってたじゃん。付き合ってもう五年経つって。周りの友達は結婚してる奴も増えてきたって」  声が大きくなった太一を前に、陸は小さく眉を顰めた。 「だからって、辞めるつもりはないよ。俺が言ったのは、結婚したいと思われていたとしても、いわゆる一般的な家庭ってのはまだ難しいから、それでもいいのかなって意味」  一般的な家庭は難しい。その言葉は太一の傷口に刺さった。 「急に美冬の話持ち出してくるなんてさ……七井さんと、なんかあったの?」  陸は、太一と佳人の関係を知っている。恋人が同性であることに偏見を持たない陸のフラットな視線は、これまで太一にとって心地よいものだった。だけど今、その名前を持ち出されると動揺を隠せない。 「違う、なんもない」 「なんもないって……七井さんが面倒みてくれなくなった? 食事とか、結構世話になってただろ、それが」 「そんなつもりで一緒にいるわけじゃねぇよ!」 「……ごめん」  陸は視線を伏せた。相方は誠実な男だ。心から謝ってくれたことはわかる。だけど今の発言で、勘ぐってしまう。  ――お前はいいよな、面倒を見てくれる人がいて。結婚をせがまれるような関係じゃなくて。気楽なお前がどうして、辞めることを考えるんだよ。  あるいはそれは、太一自身の妄想かもしれない。いや、それはその通りだ。今聞こえたのは、自らを責める声。 「……俺もごめん、急に変な話して」 「あぁ、いや。悩むことはあるよ。俺だってずっと悩んでる」 「俺さ、陸の言う通り、佳人さんにはすげぇ世話になってんだよ。でもさ、それじゃ格好悪いだろ。だから、なんとかしようと思ったんだ。俺たち、バイトも四年前の半分で大丈夫になってきたじゃん」 「……うん」 「もうすぐ、佳人さんの部屋、契約更新なんだ。でも、次は別の部屋に引っ越して――一緒に暮らせたらいいって、前に話してた。だから俺、佳人さんがいいなって言ってた部屋、こっそり申し込んでみたんだよ」  それは数週間前のことだった。四年前に佳人と出会った不動産屋に、太一は一人で訪れた。申込用紙に設けられた、職業、年収の欄。ボールペンを片手に動けなくなった。 「わかってたよ、審査通らないってこと。俺たちみたいな仕事だと、部屋借りるのだって難しい。そんなのずっと知ってたことだったのに、いざ駄目だって突きつけられると、がくっときちゃって」  陸は何も言わず、小さく唇を噛んでいた。それは彼自身にも無関係ではない話だからだ。しかし、やがてゆっくり視線を上げると、「俺は、」と口を開く。 「覚悟してた、なんて今は言えない。だから太一にも、こういう辛さはわかってただろ、なんて言うつもりもないよ。十年も前の無謀な決心なんてさ、現実になれば変わっていくものだと思うから」 「陸……」 「だから今は考え方を変えた。覚悟はないけど、生きていく知恵はついただろ。どうやって現実を生き延びていくのか――俺はずっとそんなことを考えている」 「……難しいこと考えてんな」  以前から陸はしっかりしていた。頭もいいと思う。陸の方が面白いネタを書けるんじゃないかと提案したこともあったが「俺はそういう、生み出すのは向いてないんだよ」と言っていた。その代わり、コンビとしての活動をリードしてくれていたのは陸だ。 「それはつまり、どういう意味?」 「まだ終わりじゃないって俺は思う。太一、お前は?」

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