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第9話(太一)
その時の答えは出ないまま、三日後、佳人にも考えを告げた。
住まいのことは心配しなくていいと言われたことが、一番堪えた。それは面倒見のいい佳人の、親切な提案だったはずだ。それを素直に喜べなかった。だけど理由なんて言えるはずもない。恋人との関係を辞める理由にするのは格好が悪いことはわかっていたし、多分それだけじゃない。十年やって、ネタを書いて、そのネタで落ち続けて、部屋の審査も通らない。
「俺、かっこわりぃなぁ……」
しかしいつまでも避けているわけにもいかなかった。佳人に告げたあの日から、また日を空けてしまっている。週に二回で足りるようになったレストランのキッチンのバイトの帰り道。太一は佳人の部屋へと急いだ。
(――あ、灯り点いてる)
太一も生活が不規則だったが、佳人も同じようなものだ。深夜になっても帰宅しないこともある。だから太一は、疲れた体を引き摺った帰路に部屋の灯りを見つけることが好きだった。
だけど今日は、緊張で体が強張る。それでも避け続けているわけにはいかない。勇気をもって部屋のインターホンを鳴らしてみれば、ぱたぱたと慌ただしい音のあと、驚いた顔の佳人が出迎えてくれた。
「どうしたんだよ、連絡もなしに」
「いつも来る前に連絡なんてしてないじゃん」
「そういうことじゃなくて、最近のお前――まぁいいや、上がって」
もうすぐ日付も変わろうとする頃だが、佳人はまだシャツにスラックス姿のままだった。
「帰ってきたばっか?」
「少し前にね。夕飯食べてた。出せるもんないけど」
「大丈夫。バイトで賄い食ってきたから――って、あ」
リビングのテーブルにはスーパーの惣菜がいくつも並んでいた。惣菜は便利だしそれ自体が悪いとは思わない。しかし佳人が選んだものは、焼き鳥や揚げ物と全体的に茶色い。野菜の影は見当たらなかった。
「また野菜食べてない。バランス悪いし、塩分過多になるよ」
「誰かさんのせいでね」
その佳人の口調には、甘えるような響きがあった。もしかして、太一がまたここに来るのを待っていてくれたのだろうか。そう思ったら気まずさはすっと消えていった。
「はい、じゃあ乾杯」
二人掛けのソファに導かれ、目の前にビール缶を置かれる。誘われるまま応じ冷たい缶に口をつけると、目が覚めていくような気がした。
「なにに乾杯?」
「んー……俺の昇進?」
さらりと言った佳人は、二本目のビールをぐいと傾けた。
「えっ、佳人さん昇進するの? 部長になるってこと!?」
「部長じゃなくて課長。部長なんて大変そうだからごめんだよ。課長だって、どうしたもんかって正直思うけど」
「えーっ、なんでだよ、すげぇじゃん! 佳人さんが頑張ってたことが認められたってことだろ!?」
佳人は返事の代わりに曖昧に笑った。彼はあまり自分のことを言わない。けれど太一にはわかっていた。佳人が真摯に仕事と向き合って、信頼を築いてきたのだということを。
(――それに比べて俺は……)
落ち込みかけて、落ち込みかけたことにまた落ち込む。大事な人のおめでたい話の時にも自分のことを考えてしまうなんて、どれだけ狭量なんだろう。
俯いて沈黙した太一に、佳人は思うところがあったのかもしれない。じっと見つめてきた佳人は、ビール缶をテーブルの上に置いて、ぐいっと顔を近づけた。
「うわっ」
それからデコピンを一発。驚いてのけ反った太一の手元でビールが揺れ、少しだけ膝に零れた。
「なにすんだよ!」
「いや、太一に気合いを入れようと思って」
なんだよ気合いって、と太一が抗議しかけたのを、佳人は小さく笑って止めた。
「太一、これからは食費折半でどうかな? それか、家賃の三分の一をもらうとか」
「えっ、な、なんで? どういうこと?」
まったく脈絡のない申し出に驚いていると、「あぁ、やっぱり食費三分の一からの方がいいかな」と佳人。そういう問題じゃないと言ったら、わかってるよとまた笑った。
「ちげぇよ、別に俺、ワリカンが嫌とかじゃなくて! 急に違う話になったからびっくりしただけで」
「うん、それもわかってる。俺の言い方が失敗だったな。つまり、言いたかったのは――こないだの、俺が間違ってた。気にしなくていいから続けろって、ここに住んでもいいって言ったけど、それは適切じゃなかったって、今ならわかる。ごめん」
それはまさに、太一が悩んでいたことだった。どうしてそれを、と聞くより前に表情が語っていたらしい。佳人は申し訳なさそうに首を竦めた。
「芸人を辞めたいと思ってるって話を聞いてから、考えてた。俺は太一の生活を支えることで応援している気になってたけど、なんでも面倒見ることが太一にとってプラスにならないってことに、ちゃんと向き合えていなかった」
本当は、俺が助けなくたって太一はやっていけるんだって、太一自身が思えるように頑張るべきだった。そう佳人は言った。
「あぁ、だから、食費とか家賃とかは例えというか。どういう形にしたらいいのかわからなかっただけで。この家では会わないってことにするのも考えたけど、それは寂しいかなって」
さみしい。大人の佳人が零す素直な言葉が、太一の胸を締め付ける。この人は、こんなにも考えてくれていたんだ。思わず抱きしめた華奢な体は温かかった。
「ありがとう、色々、俺のこと考えてくれて」
「……考えてたのは、自分のことばかりだったよ」
それがどういう意味か、太一にはわからない。ただ、これからはこの人が、もっと自分のことに一生懸命になれるようにしたいと思う。そのために俺も、自分のことを頑張らないと。
「佳人さん、俺」
「芸人辞めて働いてほしいって意味じゃないから」
「……」
「苦しいことを言うかもしれないけど、俺の気持ちとしては、続けてほしい。状況は変わらないのに負担を増やして、酷いこと言うって思うかもしれないけど、俺は」
酷いだなんて。太一は首を横に振った。本当は、食費折半なんて小さなことじゃなくて、自分が部屋を借りたいと思っていたくらいなんだ。今はまだ、そんなこと恥ずかしくて言えないけれど。
(どうやって現実を生き延びていくのか――俺はずっとそんなことを考えている)
太一が弱気になっていた時、陸はそう言った。それは、太一のようにゼロか百かで決めることではなくて。自分のできることとできないことを見極めながら。意地と妥協を往復しながら、踏ん張ってみるということなのではないだろうか。
まだ終わりじゃないと陸は言っていた。事実、まだ漫才コンテストの敗者復活戦も、番組のオーディションも、先輩芸人のラジオへの隔週出演も残っている。
「……辞めたいって言ったのにすぐ撤回すんの、俺、ダサくね?」
こんなことを聞く方がダサいとわかっているけれど、佳人の許しを得ずにはいられない。少しだけ体を離した佳人は、今度は太一の鼻先をぎゅっと摘まんだ。
「ぎゃっ」
「はは、何今更なこと言ってんの」
歯を見せて笑う、佳人の笑顔が眩しい。初めて会った時にくれた「面白かった」の言葉が灯してくれた光が、また胸の内を温かく照らしていくようだった。
「ダサくてもいいよ。かっこいいところも、沢山あるんだから」
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