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第10話(佳人)
「七井さん、本当にすみませんでした、ありがとうございました」
会議室に残っていた佳人に、小野は駆け寄って頭を下げた。何度目かわからない謝罪に「もういいって」と佳人は手を振った。
「結局全部七井さんに任せちゃって申し訳ないです」
「ほんとにいいんだよ、確認が漏れていた俺の責任なんだから」
そう言ってから、こういう言い方はまた相手に任せていないことになるなと気が付く。慌てて佳人は、「つまり、俺も確認が漏れることがあるから、一緒に気を付けてくれると助かる。小野さんに、もっと助けてほしいってこと」と付け加えた。その急拵えなフォローがおかしかったのか、小野はやっと笑ってくれた。
創立三十周年記念パーティーまであと一週間。経理担当からの連絡によって、見積もり段階での予算の超過に気が付いた。調べてみると、小野の担当していたオープニング動画の作成において過剰請求があったことがわかったのだ。制作会社との打ち合わせのすれ違いによって、付ける予定のなかったサービスまで見積りに加わっていたことがわかった。入金前だったので、すぐに連絡をして外してもらうことができたが、議事録が不足していたことや直前の変更だったこともあり先方は少し難色を示した。
とはいってもそれだけのことだ。
この程度のことはよくあるし、見落としていたのも打ち合わせが不十分だったのも、佳人にも責任はある。
「大したことじゃないよ。営業の時だってこれくらいのミスはあっただろ」
「でもせっかく七井さんが任せてくれるって言ってくれてすぐでしたから」
「そんな。普段しっかりやってくれているのは知ってるし、これからもどんどんお願いしていくつもりだよ。小野さんがしんどいって思うくらい任せるかも」
「早くそうしてもらえるように頑張ります。七井さん、ずっと気を張ってるでしょう? もう少し肩の力抜いてもらえるようになったらって思ってたんです」
そんなことまで見透かされていたのか。昇進が決まってから、一層気を張り巡らせて働く日々だった。余裕がなく焦っているように見えただろうか。そうだとしたら恥ずかしいし申し訳ない。うまく返事ができずにいると、良いタイミングでタイミングでスマホが鳴った。
「出なくていいんですか?」
「あー……メッセージみたいだ」
画面を見ると、太一からだった。
『動画アップしたよ!』という報告と共にリンクが貼ってある。四年前、動画のチャンネルを持っていなかったセブンスラッシュも、この一年でようやく始めるようになった。佳人が勧めたからというと恩着せがましいが、試行錯誤しながらなんとか続けているそれは、じわじわと視聴者数を増やしつつあるらしい。
開いたリンク先では動画の自動再生が始まっている。目敏い小野は、「あっ、セブンスラッシュ仙川の動画じゃないですか」と声を上げた。
「知ってるの?」
メッセージのやり取りは見られていないらしいことに胸を撫でおろしつつ尋ねると、小野は「最近時々SNSで見かけますよ」と言った。
「仙川の貧乏飯のレシピ動画、同じ一人暮らしの身としては重宝してて」
動画には、太一の小さな部屋の狭苦しいキッチンが映っている。三百円で何品作れるか、といったチャレンジ動画が人気らしい。普段は佳人の買った材料で自由に調理する太一だが、一人の時はこんな工夫をしているのかと感心した覚えがある。
「芸能人も売れるまではこんなふうに僕たちと同じように頑張ってるってわかるの、なんだか親しみが持てていいですよね」
小野は自分のスマホでも同じ動画を開いて、ブックマークしたらしかった。
漫才コンテストの敗者復活戦は、全三十組の中から一組だけが選ばれる狭き門だ。仕事の関係でどうしても観に行くことができないことを佳人は申し訳なく思っていたが、太一はあっけらかんとしていた。
「そりゃあしょうがねぇっしょ。佳人さん仕事頑張ってんだから。お互い頑張ろうぜ」
そう言った太一は本当に、自立しようとしているのかもしれない。もっと寂しんでくれても可愛いのに、と思いかけた自分に喝を入れて、佳人は気を引き締める。
(――そういうことを考えてるからミスしたんだ。少なくとも、記念パーティーの本番までは集中しよう)
そうしてお互い、目の前のことに打ち込んだからこそ、一日の終わりを一緒に過ごす時間が得がたいものに感じる。
太一の敗者復活戦が翌日に、佳人のパーティーが三日後に迫ったその日の深夜。二人は佳人の部屋で食卓を囲んでいた。
今日は時間が無かったから簡単なもの、と言いつつ、佳人が適当に選んで買うコンビニ弁当や惣菜よりはるかに色彩豊かな太一の手料理たち。その大半は二人の胃の中に収まって、腹をくちくさせていた。
「ご馳走様でした。美味しかったよ」
「へへへ、今日は俺の奢り~」
食費折半の決まりを守り、自分で材料を買い揃えていた太一は妙に嬉しそうで、にこにこと子どものように笑っていた。
「あ、今日のトリはレオパーズか」
テレビに流れているのは、昨今珍しい唯一のネタ番組だった。研究のために欠かさず観ている太一のために、リアルタイム視聴に加えて録画も回っている。昔はこうしたネタ番組のネタすべてを文字起こしまでしていたらしい。
「そうそう、やっぱおもしれぇよなぁ。俺らも前に一回受かって出たんだけどさぁ、最近厳しくて。でも確かに出てるヤツみんな上手いから、悔しいって感じ~」
悔しいと言いながら、相手から真摯に吸収しようとする太一の姿勢は好ましかった。素直にけらけらと笑い、笑った後に自分が何故笑ったのかを考える。その柔軟さは太一の魅力であり強い武器だ。画面に見入る横顔を眺めながら、そんなことを思った。
温かい笑いと拍手のうちに、番組は終わっていった。
「そういえば酒、飲んで平気なの?」
「うん。本番は夕方だし。バラエティ番組のオーディションもあんだけど、それも昼過ぎから」
「直前まで練習してから行くのかと思ってた。大変だな」
「合間で結構やってるし。他にも集中できることがあるのはありがたいことだよ」
そういって太一はソファに凭れた。確かに、集中が分散するのはいいことかもしれない。佳人だって仕事が佳境を迎えている今でなければ、太一の自立をもっと寂しく思っていただろうから。
「あ、だから明日の朝は余裕あるってこと」
缶をことりと置く音。太一は被さるように佳人に身を寄せた。体温がぐっと近づく。料理やアルコールの奥の、佳人が好きな太一の匂い。少し長い髪に指を差し入れて撫でると、太一はうっとりと目を細めた。
「佳人さん、おれ、がんばるから」
「……う、ん」
それが、明日のことなのか、これから先のことなのか、今この瞬間のことなのか。それとも全部なのか。佳人にはわからない。ただ、どうであれ嬉しくて、応えるように唇を塞ぐ。柔らかく濡れた感触に浸るうちに、もっと欲しいと強く求められた。いつもは可愛らしい太一が、欲求のままに縋る様子が、佳人は好きだった。好きな相手に求められている実感は、脳の奥をじんわりと甘く溶かしていく。
今だけはすべて委ねて、互いのことだけを見て、そしてまた明日から自分の足で歩いていく。その繰り返しが日常になっていったら、どれだけ素敵だろう。
柔らかく動く舌の感触を、体を撫ぜる掌の体温を感じながら、佳人はそんなことを思っていた。
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