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第11話(佳人)

 朝からせわしなく動き回っていた佳人が、ようやく私用のスマートフォンを開くことができた時、時刻は既に夜の二十一時を過ぎていた。  漫才コンテストのセブンスラッシュの出番はおろか、結果発表も終わる頃だ。流石にまだ太一からの連絡は入っていない。しかしSNSには会場を訪れた観客の感想が溢れている。太一自身から報告を聞きたい気もしたが、誘惑に抗えず佳人は速報を見てしまった。  ――敗者復活は、芸歴十五年の漫才コンビ・キューカンバーズに決定!  そこには佳人の知らないコンビ名が書かれていた。どうやらお笑いファンの間ではそれなりに知名度があるらしく、「やっと日の目を見るチャンスがきた!」「二人の面白さがもっと広まってほしい」と、注目度の高い漫才番組に出演できることを喜ぶファンの声が見受けられた。  出てきた写真を見る限り、佳人よりも年齢が上の二人組に見える。芸歴十五年とあるが、太一たちのように高校を卒業してすぐに始めたというわけではないのだろう。 (年の功というか。十五年か――)  太一への励ましの言葉を考えるよりも先に、十五年間一つのことに邁進していくのはどんな心持ちだろうかと想像する。きっと、今の太一が抱える悩みのようなものは、数えきれないほど味わっただろう。 (お前たちもあと五年頑張れば――とは言えないかな)  そもそも情熱とは無縁の佳人にとって、まったく理解の及ばない境地だ。その五年がどれほど過酷なものなのか想像がつかない上、今回勝った彼らだってこの先どうなるかはわからない。  太一はまた落ち込んで、やっぱり辞めると言い出すのだろうか。今日も部屋に来る予定になっている。相方の松山陸やマネージャーの菅野たちと打ち上げをしてくるのかもしれないが、もしうちで何かを食べたいと思った時のために、美味い冷凍食品や酒を買い込み、少し良い入浴剤まで用意してあった。これも、重い行為だろうか。今日くらいは許してほしいと、誰に言うでもない言い訳が過った。  だから、驚いたのだ。 「おかえり、佳人さん」  連絡がないことに不安を覚えながら急ぎ帰宅すると、太一は既に佳人の部屋のキッチンに立っていた。 「飯食った? いま簡単なおかず作ってて。食わねぇなら保存も効くから」 「なんで。俺はてっきり、松山くんや菅野さんたちと飯とか行ってくるのかなって」 「うん。それはまた今度にしようってなったんだよね。最近ずっと練習で会ってたし、今日は疲れてるだろうからって」  そう言った太一はあまり元気がなかったが、先日の追い詰められたような様子ではない。冷静に自分たちを見つめて、前を向けているということならいいが、妙な違和感がある。佳人は、せっせと手を動かす太一の肩を掴んだ。 「無理しないで。結構堪えてるんじゃないの」  振り向かせると、目が合う。太一の瞳は小さく揺れているように見えた。 「太一?」 「あー……あのさ!」  その声は努めて明るい。だけど、どこか空々しかった。 「敗者復活は、うん、すげぇ悔しかったよ。でもさ、昼は番組のオーディションだったって話、したじゃん」  なんの話だ。そちらの出演が決まったということだろうか。続きを待っていると、眉を下げ困ったような作り笑いを浮かべた太一は、言葉を続けた。 「なんかさ、その番組のプロデューサーがさ、俺と佳人さんのこと、知ってて」 「え?」  太一と、俺?  どうしてそこで自分の名前が出てくるんだ。急な方向についていけなくなる。待ってくれ、それは。 「それで、彼とのこと、番組で紹介しないかって言われて。ほら、今って男同士とかって偏見、なくそうってなってるだろ。だから、こう、芸能人の家族とか紹介する企画の一環で」 「受けるって言ったの?」  驚きと共に何とか発した言葉は、思ったよりも語気が強くなった。そのことに太一がひくりと肩を竦める。待てよ、こんな反応をされることも予想していなかったのか? 黙って見つめていると、太一は一層困ったように「……聞いてみないと、って言った。だから、受けるとは言ってないよ」と弁解した。  心臓の音が痛いほど、一つひとつが頭に響く。佳人は、ショックがじわじわと胸の内に広がるのを感じていた。その企画そのものにではない。芸能界にいたら、人のプライベートを切り取って加工して、まったく違うものに仕立て上げるような仕事は無数にあるだろう。佳人は太一のライブに時々顔を出していたし、よく一緒に出掛けていた。だから人に知られたことも受け入れられる。  ショックだったのは、太一が「あわよくば佳人が頷いてくれたら」と思っていそうなところだった。でも、だって。 「それは、違うだろ。そんなプライベートを切り売りするのは」  互いに依存しないことを目指そうとしていた。だから早く仕事を増やそうと太一が考えたのだろうことはわかる。だけど、互いの関係という、本人の努力とは違うものを注目を引くアクセサリーのように加工されるのは、全然違う話だろう。 「……ごめん、そうだよね」  力なく肩を落とした太一の声は弱々しかった。 「なんで最初から断らなかったんだよ」 「だって、佳人さん、男同士だからって気にしなくていいって、言ってくれてたし。外でも普通の恋人同士みたいにしても怒らないし。ちゃんと好きな人がいるって言えるのは、いいこともあるかなって」 「いいって言ったのは、太一が同性は初めてだったから。性別とか気にせずそのまま振る舞ってくれたらいいって意味だよ。それとこれとは違う」 「ごめん、佳人さん、俺ちゃんと断るから」 「俺だってずっと隠して生きてんだよ、その方が便利だから。社会に出て、楽な生き方したいんだよ、わかるだろ」  わかるだろ。それは明白な棘だった。お前にはわからないだろ。普通の社会人として生きたことがなくて、普通の中で生きる苦労を知らないお前には。  一番傷つく言葉を選んだことを自覚した時には遅かった。 「――ごめん、太一、今のは」 「ううん、俺が悪かった。ほんとごめん。今日は、帰るわ」  握りしめたままだった菜箸を置いた太一は、素早くエプロンを解くと荷物を引っ掴んで玄関へと向かった。その背中に手を伸ばし声を掛けたのに、踏み出して触れることができない。躊躇している間に、ぱたんと玄関の扉が閉まる音がした。  最後に見上げた太一は、涙ぐんでいたように見えた。 (……あんなこと、言うつもりじゃなかった。そもそも、そこまで怒るようなことじゃなかったのに)  連日の疲れで余裕を無くしていたのだと思う。だけどそれは太一に関係のないただの言い訳だ。  太一が置いた拍子に落とした菜箸を拾って戻す。小鍋からタッパーに移されかけていたのは、茄子の煮浸しだった。それをしまおうと冷蔵庫を開けると、いくつもタッパーが並んでいるのを見つけた。大根の漬物やピーマンの肉詰め、豆腐ハンバーグなど、太一の料理動画で紹介されていた安くて簡単にできるというメニューだった。「七井さんはもっと栄養バランスを気にしてください!」と、付き合った当初から作ってくれていた料理たち。これらも皆、彼が練習して身に着けたのだろうことを知っている。  毎日台所に立ち、オーディションを受け、先輩芸人のネタやバラエティでの振る舞いを分析して、ネタを考えて。面白いことにアンテナを張って、美味しい店にも詳しくて。会社員というものにしがみついているだけの佳人と正反対の、まるで色とりどりの花火のように眩しい太一のことを、尊敬していたんだ、本当は。  馴染みの漬物を一切れ摘まんで口に入れてみる。それはいつもと変わらないはずなのに、何の味もしないように感じた。  翌朝、太一からの連絡はなかった。こちらから改めて謝罪を入れようと思ったが、返事があるかが気になって何も手につかなくなることはわかっている。大事な仕事の直前である今は我慢するしかない。 (――落ち着いたら、ちゃんと謝ろう)  何の通知もないスマホをポケットにしまい、いつもの日常を送るためにオフィスへと足を入れた時だった。日常に、常ならない空気が漂っている。自席の隣――先に出社していた小野の様子がおかしい。朝の挨拶をすると、彼は蒼白な顔を佳人に向けた。 「七井さん、どうしましょう――」

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