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秋され 2

“彼”に声をかけたことに深い理由はなかった。普段はのんびりとした事務仕事ばかりを気ままにこなせばいいだけの職務だったにも関わらず、立て続けに難解な仕事が入り込んで気がめいっていたせいもあるし、忙殺されるあまり、“寝る、食べる”だけの、究極的簡素生活が続いたせいで人恋しくなってしまったせいもある。加えて、奔放を絵に描いたような疎遠の父親が倒れてしまい、大学病院近くに構えた勤め先に数日泊まり込んで慣れない世話を焼いた心労が祟ったこと、そしてようやく自宅に帰られる開放感に気が緩んだことも、低俗なナンパを企てるきっかけなった。気の迷い。(やつ)したこころに魔が差したのだ。  僕と少年は、テーブルをはさんで向かい合っていた。道中、彼は訳のわからない空想の話に夢中で周りの景色を見ていなかったらしく、潔癖なヘッドライトが妖しいネオンライトへと移り変わったことにも気が付いていないようだった。僕が白々しく一つのホテルを指さし、あそこでゆっくり話そうと声をかけると、意外にも“良いですよ”と素直に了承してくれた。連れだって歩く合間にこぼした、仕事が忙しくあまり寝られていないのだという話を一応はこころの片隅に置いてくれていたらしい。大方、そのまま僕が仮眠でも取るのだろうと勘違いしているのではないだろうか。君も寝るんですけど、いろんな意味で、と心の中で彼の小さな耳朶に嘯く。  ビジネスホテル然としたラブホテルを選んだのだが、ここまで来てもやはりまだよく分かっていないのか、彼は“最近のホテルはいろんな部屋があるんですね”と、何度もうなずいて感心していた。無垢すぎる姿に少々、罪悪感を覚える。  どうしてだろう、一夜限りの関係なのだから情は移さないぞと思っていたのだが、だんだんと後ろめたいような、健気でいじらしい子供を騙して、“はじめての性体験”という名の“宝物”を取り上げているような気分になってきた。この様子だ。彼に色恋沙汰のひとつでもあるとは思えない。罪滅ぼしに『好きな部屋を選んでいいよ』と言ってやると、少年は嬉しそうに体を左に右に傾け、パネルを楽しそうに吟味していた。かわいそうに、彼が選ぶ部屋は、いわば処女の花が散る生贄の祭壇のようなものだ。 「いろいろと気になるけど、とりあえず名前を教えてもらってもいいかな?」 「黒謡、だ」  待っていましたとばかりに得意げな顔を見せられる。 「コクヨー?」 「暗黒界では地下ギルドの長、黒騎士ヴィルグルフトと呼ばれている。またの名を黒神天帝ヴィルグルフトだ。こちらの世界では、コードネームとして黒謡と語らせて貰っているがな」  長で騎士で天帝で、コードネーム? 訳が分からん、と首を傾ける僕に、ヴィルなんとか、――――コクヨーくんは鞄の中からノートを取り出すと、へたくそな字で“黒謡”と綴った。 「人の子らに謳う鎮魂歌……、黒い童謡……、それが我だ」  黒い童謡とは。 鎮魂歌なのか童謡なのか、一体どっちなのだろう? 表紙に“2―A 吉田春斗”と油性マジックで記してあるけれど、僕は大人なので気付いていないふりをする。ふうん、と適当に相槌を打つ僕に気を良くしたのか、コクヨーくんはぴんと伸ばしていた背からゆるく力を抜いて、ほう、とルームサービスのココアを緊張気味の唇で啜った。 「あ、貴殿のコードネームは」 「アキツ、と呼んでくれればいいよ」  コードネームという、おおよそ日常では使わないであろう語句にも慣れてきた。疑問に思うだけ無駄だし、何より疲れる。余裕ぶりたい僕は、背後できらめく白いシーツから必死に気持ちを引き剥がして足を組み替える。 「そういえば、君はあの公園で何をしていたの? 風邪引くよ」 「塾の帰りで。あ、猫がいるんですよ、あの公園」 「ねこ」 「猫。今日はいませんでしたけ……」  コクヨーくんはそこまで言うとはっと我に返り、小さく咳ばらいをした。あくまでも黒騎士という設定を貫きたいという矜持が窺える。たしかに、猫に待ちぼうけをくらう暗黒界の黒騎士というのは格好がつかない。 「ふうん。……ねえ、好きな子はいるの?」  にやつく僕のねぶるような視線に戸惑い、瞳が大きく揺らぐ。 「わ、我はひとの子になど惹かれぬ……」 「失恋したくち?」  意地悪く問うと、コクヨーくんはゴクリという大きな音を立ててココアを飲み込み、苦しそうにせき込んだ。 「あ、ごめん、図星だったとは」 「ち、ちが、ゲホ、わ、我はひとの子になど惹かれぬっ!」 「だいじょうぶだよ、コクヨーくん、いいよ。見た目はちゃんと整っているよ。僕、けっこう好みだよ。そのうちモテるって」 「好み、って。励まされてるのかなんなのか、よくわかんないよ……」  狼狽えて落ち込むさまは年相応でかわいらしい。心なしか切れ長の瞳に涙の粒が浮かぶ。その粒がこぼれないかと見守るけれど、残念ながら長い前髪に隠れて見えなくなってしまった。

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