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ムーンリバー 1

 まるで五月晴れの空のようにすがすがしい、定時上がりの晴れやかな勤め人たちの表情。初秋のすこしだけ冷ややかな風を頬と産毛でかき分け、誇らしげにずんずんと進む。アフターファイブは帰路に着くのもよし、飲みに出かけるもよし、ひとそれぞれの人生が往来を所狭しと跳ねていく。  僕も例に違わず定時に仕事を切り上げ、懐かしの母校へと足を運んだ。紅葉しきった銀杏並木が私道の両側を彩り、その黄金色の軌跡をなぞるようにしてガードレールが連なっている。金色の葉の向こうには国内でも有数の知名度を誇るS湾が広がり、水面の小波に燃えるような夕陽がちらちらと砕け光っていた。道自体が急勾配な坂になっているので、中ほどまで上ると次第に視界が開け始める。更に進めば市街地や港、そして消波ブロックに波のあわいを滲ませた湾を望めるようになる。  僕は学生時代から、この坂を上るのが好きだった。近道として、実家近くの林道からこの坂を通って通学していたのだが、眼下に見渡す街を眺めて遅刻する事もざらにあった。人こそさすがに肉眼では見えないものの、ここまでわっと匂い立ちそうな港町の潮の香り、混雑する駅前の行き交い。今夜のデートに思いを馳せるOL。商店街には老舗着物問屋の重厚な布の独特な香り。花屋には慣れない様子で恋人への贈り物を探す初心なサラリーマンがいて、八百屋には活気の良い親父さんの声が飛び、青臭い野菜の匂いを震わせる。夜の帳が下りれば、濃厚な闇に沈む街を人工の電飾が蜘蛛の巣のように絡み合い、鮮やかに魅せる。それらの想像の全てをこの坂から一度に見下ろす。僕はそれが好きだった。あの頃と感覚が違うとすれば、大人になった僕は車でこの坂を一息に駆け上がれることだろうか。急勾配によってかいた汗を潮風で冷やしていた僕は、もういないのだ。  今日、わざわざこの地に足を運んだのは他でもない、先日わけのわからない出会いを果たしたコクヨーくんにもう一度会うためであった。恩着せがましくわざわざ足を運んだとは言ったものの、仕事の帰りがてらふらりと立ち寄ったというほうが正解だ。  僕は大学時代に懇意にさせてもらっていた先輩の口利きのおかげで地元の市内で就職できたので、実家でひとり、悠々自適に一人やもめを謳歌する日々を送っている。先ほどの眼下のどこに在ったのだろう、他会社と比べれば米粒ほどの大きさにしか見えぬ、全二階建ての会計事務所でしがない事務員をしている。  学校指定の駐車場に車を停めて遠くに広がる夕暮れの街を背に黄昏ていると、通り過ぎざまの男子学生に二度見された。それが紛れもないコクヨーくん本人であったわけだけれども、僕はひらひらと手を振るだけで自ら声をかける事はしなかった。 「げっ、やっぱり。ええっと、アキツ、さん、だっけ? でしたっけ?」  こうして名前を呼ばれたいがために、わざと子供染みた真似をしてみたのだが、その意図に気付いているのかいないのか、少年は心底嫌そうな表情で僕から距離を取った。野良猫に威嚇されている気分だ。 「きみ、車の中に定期入れを落としていたよ。学生証も入っていたから大変だと思って届けに来たんだけど」 「えっ、ああ、あ、そう、でしたっけ、あ、りがと、ございます」  僕は懐から自分の名刺とコクヨーくんの定期入れを取り出し、いちいちビクつく彼の掌に重ねるようにして置いた。少年はどうでもいいように定期をしまうと、じいっと名刺に目を落としてひとしきり眺めた後、感心したように言葉を繰り出した。 「秋津誠二郎……、それでアキツ、ですか」 「そうだね、かっこいいコードネームじゃなくてごめんね」 「あ、いや……」  これ見よがしに皮肉を交えてみるが、コクヨーくんは案外そっけなくて、僕は狐につままれたような心地を味わった。てっきりまたやいのやいのと訳の分からない呪文を浴びせられると思っていたのだが、落ち着きがないように、何か言いたげなそぶりで居心地が悪そうにしている。 「なんかコクヨーくん、元気がな――……」 「春斗?」  背後から鋭い声がかかり、僕とコクヨーくんの視線はそちらへと集束する。声の主は、いかにも“利発そう”としか形容できない男子学生だった。恐らくはコクヨーくんの同級生であろう。利発クンが親し気に呼ぶ“春斗”というのは、コクヨーくんの名のはずだ。 「あ、浅倉!」  コクヨーくんはまるで暴漢から助け出された淑女のように僕の前をかけって、利発クンの背後に隠れてしまった。これにはさすがに傷付いた。一応は一夜限りとはいえ、――――まあ少々、強引な面もあったとはいえ、仮にも甘い夜を過ごした関係であり、下心はあれど親切に届け物をした僕に目も合わせずに走り去ってしまうとは。やたらと利発クンと親密そうな雰囲気を漂わせているのがまた、なぜだかこう、気に食わない。胸の底がぞわぞわと落ち着かない。  僕は彼の名前くらいしか知らないというのに、それほどたくさんの話をしたわけではないというのに、どうして。子供のような独占欲と嫉妬心、その他諸々の感情を押し殺しながら利発クンの方へと笑顔で歩み寄った。 「コ、春斗くんのお友達かな?」 「だれ?」  利発クンは、いかにも怪しい不審者を見るような目付きで上から下までねめつけると、背に隠れてしまったコクヨーくんの腕を掴んで顔を覗き込んだ。不安げに揺れるコクヨーくんの瞳がちらりと利発クンに向けられ、気まずそうにまた伏せられる。一連の動作を食い入るように見つめ、利発クンはしばらく思案すると棒立ちのままの僕に冷たい毒を吐いた。 「春斗はあんたの事を怖がってるみたいだけど、なに? 誰?」  怜悧な視線が、うしろめたい僕を貫く。このまま通報でもされかねない勢いにウッと喉を詰める。昨夜、わいせつな行いをしたことは事実なのだ。 「ま、まあまあ。怪しい者ではないから安心してよ。忘れ物を届けにきたついでに、少しだけ話があるだけだから」 「話……?」  すい、と同じように名刺を差し出すと、利発クンはそれを裏から表から舐めるように見まわし、相変わらず胡散臭そうな眼差しを向けてくる。 「胡散くさ。怪しすぎるんだけど。話なら今ここでして」 「ここではできないような話なんだけどなあ」 「あやしいツボなら買いませんよ。コミュニケーション能力が上がるネックレスもいりません」  犬でもあしらうように手を振られる。こういう子はこちらが下手に出れば出るほど付け上がるタイプだ。これ以上話してもきっと平行線だろう。依然として落ち着きなく俯いてもじもじしていたコクヨーくんに手を伸ばすと、利発クンは目にも止まらぬ速さで彼を己の背に隠した。 「だから、怖がってんだろ」 「そうなの?」  利発クンの後ろで唇を噛んでいる少年のつむじをひょいとのぞき込むと、びくんと大きく身体が震えた。もしかして、本当に怖がらせている……? 「あ、そういう、わけじゃ……」  落ち込む素振りを見せる僕を気遣ってか、彼は瞳を泳がせながら一歩前に出た。夜の闇や、紫色の間接照明の下で眺めていた昨夜の彼とは違い、赤い夕陽の下で観る少年の姿はあまりにも無垢で、潔癖だった。またしても胸がざわめく。まるで一目惚れでもしてしまったかのような――……。  呆ける僕をおずおずと見上げ、コクヨーくんは何度か息を整えてから利発クンに頷く。 「おれも、お話が。……浅倉、じゃあまた。明日ね」 「は、春斗っ! だいじょうぶ、なのか……?」  よほど心配なのか、利発クンは不安げに眉根を寄せている。僕に向ける辛辣な言葉尻とは違い、かすかに語尾が震えている。僕は差し詰め、大切な友人を拐かす悪魔といったところだ。あながちそれも間違ってもいまい。 (この子は知らないんだろうなあ、コクヨーくんが射精するときの表情)  こころの底からコクヨーくんを慮る大親友すら知らない彼の姿を、僕は知っている。そしてこれほどまでに心配している親友を差し置いて、コクヨーくんは得体の知れない男の毒牙に掛かってのたうち回るような性の快楽に溺れるのだ。これでは本当の悪魔だ、僕は。 「じゃあ、行こうか?」  コクヨーくんの背中に手を回し、車までの短い距離を少しずれて歩く。取り残された利発クンの瞳から放たれる憎々しげな光線を、背中が焦げるほどに浴びていた。

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