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ムーンリバー 2
* * *
コクヨーくんはアームレストに肘を置き、頬杖を付いたまま車外を流れる風景を眺めていた。無言の時間が流れる。
妙な勢いに助けられ半ば無理やり彼を連れ出してしまったが、これで良かったのだろうか。今更ながら後悔し始めている自身に驚かされる。予定としては、定期入れを渡し、一言二言ことばを交わしたのちにすぐ別れ、帰路に着く。そしていつも通りビールでも飲もうかと思っていたのだが――――。後悔のため息が漏れ、胃の底から陰鬱がじわじわとこみ上げた。
話があるとは言ったものの、僕はいったい彼に何を話すというのか。もしかしたら、ただ単に定期入れを返してサヨナラをしてしまえば、唯一でかすかな接点が失われてしまうような気がしたのかもしれない。まるで乙女のようだ。僕は彼のことをまだ何も知らないし、自分のことさえ何も話してはいないというのに。
「コクヨーくん、寒くない?」
「……あ、いや、大丈夫。です」
「そ、う。寒かったら言ってね」
昨夜顔を合わせた時の彼は、もっと饒舌だったはずだ。こちらが一を問えば十の答えが返ってくるような、そんな子だった。しかし、今日の彼は元気がない。不貞腐れているような印象さえ受ける。やはり先ほどの利発クンへの態度が悪かったのだろうか。それならば早く謝ってしまった方が良い……、とは分かっているのだが、なけなしの自尊心が迷いを押し殺す。
流行の音楽を何一つ知らない僕のカーステレオからは、『ティファニーで朝食を』のサウンドトラックが静かな抑揚を持って流れていた。
(昨日の夜とおなじだな……)
格段冷え込んだ秋風を切りながら彼を車で自宅近くまで送り届けた、昨夜のことを思い返す。今と同じくような気温の中、こうして並んで無言の時を刻んでいた。無言とはいっても気まずい沈黙ではなく、コクヨーくんは疲れ果てて昏々と眠っていただけなので、苦にはならなかったけれど。
僕があのホテルで仮眠から目を覚ました時、コクヨーくんはよそよそしい距離を開け、ベッドの上で丸まってよだれを垂らして寝入っていた。人のことは言えないものの、見ず知らずの男、それも猥褻な行いを半ば騙すような形で行った人間とひとつのベッドで眠るなんてどうかしている。警戒心がないだとかそんな次元ではない愚挙に、僕はなによりもまず心配になってしまった。ひとを疑わない教育をされたのか、そもそもそれが彼の性根なのか――――。
「僕が善人でよかったよ、本当に……」
電車だって最終までまだ余裕があるし、すぐ近くにはバス停だってあったはずだ。帰ろうと思えばいくらだって先に帰られただろうに……。
(まあ、一応はホテル街だし未成年だし、むしろここにいてくれてよかったのかも……)
時計を見ればチェックアウト時間ギリギリだ。適当に髪を整え、少年の体を揺する。
「ほら、起きて、帰るよ」
ゆさゆさ、揺れるからだと連動してシーツの上で黒髪が踊った。揺らせど揺らせど、寝息すら乱れない。僕はコクヨーくんを起こすことを諦め、かなり無理をしながら彼を担いでホテルを後にしたのだった。車を遠くに停めたことを、血反吐を吐く思いで後悔しながら。
「あ……」
そういえば、その時だ。車の中で彼の鞄の中から学生証を検め、住所を確認したのは。その時に定期入れもろとも鞄に戻し忘れ、車中に置き去りにしてしまったに違いない。つまり、定期入れは彼が落としていったのではなく、僕が返しそびれたものだ。
「? なんですか?」
「いや、なんでもない。ただ君に、悪いことしたなって……」
端からすべて僕のせいだった。コクヨーくんはどう返答したものか困りあぐね、眉根を寄せていた。
「別に……、気にしてません」
突然学校まで押しかけてしまった件だろうか、それとも、ホテルで体に触れたことだろうか。
「ねえ、そういえば昨夜、どうして先に帰らなかったの? フロントには連絡してあったし、キーも机の上にあったでしょ」
横目で見ると、コクヨーくんは猶更困ったように口元を歪めて泣きそうな表情を作る。どうやって言葉を紡げばいいのかも分からないような、コミュニケーション下手なこどもが見せる仕草だ。
「……僕じゃなかったら、そのまま本当に犯されていたかもしれないよ。財布だって盗まれていたかも。住所を控えられて、写真を撮られて、脅されてたかも。僕が言うのも変だけどさ、……知らない人間はもっと怖がらないと」
淫行を働いた変質者の言うことばではないな、と思う。コクヨーくんは膝の上で固く握ったこぶしの親指をもじ、と動かす。俯いた横顔は横髪で隠れた。
「……大丈夫と、思った」
「ん?」
「……、アキ、アキツさん、は、大丈夫だと、思った。俺の話、うるさいって言わずに聞いてくれたし……」
“大丈夫と、思った――――。”
車の振動音にも負けそうな弱い声を辛うじて拾う。言葉の切れ目に呼吸音が混ざり、緊張しながら告げられたことばなのだと知った。
あんな行いをしたのに、僕は信頼されているのか? まだ存在と名前くらいしか知らないのに?
言葉が途切れる。僕もどう返答していいのかわからず、ただ先導車を追いかける。夕暮れから夜に移り変わる曖昧な空模様がフロントガラスいっぱいに広がり、会話もなく所在なさげに前ばかりを見据え、まるで二人そろってシアターかプラネタリウムでも眺めているようだった。折しもトラックはちょうど『ティファニーで朝食を』の挿入歌に差し掛かったところで、星ばかりが明るい黒雲母の空をムーンリバーがしっとりと舐め上げている。
表題の映画自体は見た事がないのだが、亡き母が大切にしていたこの音源を化粧棚から引っ張り出し、初めてこの車を購入した時期からオーディオにセットしたままになっていた。
「……あ、これ」
優しく語りかけるような甘い歌にしみじみと思い出に浸り込んでいると、コクヨーくんのか細い声が追想を裂いた。まさか機嫌の悪い(ように見える)彼から話しかけてもらえるとは思ってもみなかったので、『へ?』と間抜けな声を出してしまった。
「知ってる、この曲。懐かしいなあ。よくお母さんが鼻歌で歌ってて、ああ、懐かしいな」
記憶の中の思い出を追うように、コクヨーくんはやさしい微笑を浮かべて瞼を閉じた。ひどく安心しきった顔を横目で見止め、彼の母親の姿をぼんやり想像してみる。
「そうなんだ。コクヨーくんのお母さんってことはまだ若いだろうに、クラシックな映画が好きなんだね」
「そう、だね。でも俺がまだ小さい頃に亡くなったから、よく……」
わからないんだ、とこぼす彼に言葉を詰まらせた。プライベートな部分に入り込んでしまったような気がしてちらりと表情を窺う。しかし伏せられた瞳からは哀しさは窺えず、隠したい事柄にも、踏み込まれたくない領域にも見受けられなかった。母親が他界したという、爆発的で強烈な悲しみが記憶に薄いというのは本当のようだ。それよりも、“母親がいない”という、その後の日常でひしひしと感じる孤独のほうがずっと印象深いのかもしれないと勝手に想像する。子供の時分、思春期なんて特にそうだ。肉親を失った悲しみは薄く引き伸ばされ、長く続き、時折自制できなくなるほどに激しい濁流となることを、僕も知っている。
「あ、……」
押し黙る僕に、コクヨーくんは何かを言おうとしている。おそらく、暗くさせてしまってすみませんとかそんなことを言いたいのだろう。しかし、そうすんなりと想いを伝えられるほど、この少年はまだ僕との空間や時間に馴染んでいない。
「大丈夫だよ。変なことを言って悪かったね」
ぶんぶんと頭を振られる。水気を飛ばす犬のようだ。
「はは、頭が痛くなっちゃうよ?」
赤くなって項垂れる少年に笑いを零し、背もたれに体重を任せる。は、と一呼吸を置いてから口火を切った。
「――――僕の亡くなった母も、この曲をよく聴いていたんだ。本当だよ」
「そう、なんですか……」
「そう。すごい偶然だね。もしかしたら、僕の母親ときみのお母さんは、趣味の合ういい友達になっていたかもしれない」
普段なら、自分から母親の話を口に出したりなんて絶対にしない。親近感を持たせたいだとか、安心させたいだとか、そんな打算的なことはひとかけらも思わなかった。ただ、ただ純粋に話したくなっただけだ。
「おかあさん……、」
コクヨーくんは少しだけ笑って、やわらかい笑みを口元に浮かべたまま嬉しそうにじっとカーステレオに耳をそばだてた。
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