7 / 39
ムーンリバー 3
信号に引っ掛かったせいで、コクヨーくんのまるい頬はテールランプの赤い灯に照らされていた。ハンドルに軽く頭を凭れさせ、隣でぼんやりと呼吸を繰り返す表情を盗み見る。薄い下まぶたに睫毛の濃い翳が落ち、彼が瞬く度にその陰りは炎のようにゆらゆらと揺れた。
「コクヨーくん……」
吸い寄せられるように身を乗り出して彼の前髪を持ち上げ、額に唇を落とした。離れる際に柔らかそうな唇が少しだけ開き、瞳が大きく揺れたのを見逃さなかった。眉根がぎゅっと寄り、しかしすぐに唇は閉ざされる。
「……ふふ。ごはん、食べようか。お腹が減ったでしょう。近くに店があれば良いけど」
ハンドルを切りながらそう告げると、コクヨーくんはきちんと頷いていた。それが僕のこころををざわりと粟立たせた。なぜか、彼をたんと甘やかしたい気分になった。
程なくして、僕たちは洒落気とは縁遠い和食料理専門のチェーン店に寄った。コクヨーくんは僕の向かいに座り、いい子に土手煮定食を食べていた。食事代をこちらで出す旨を伝えたところ、最初こそメニューの中から必死で一番安いものを選ぼうとしていたのだが、牛すじが好物だということをどうにか聞き出して先の定食を勧めてやった。こちらに気を遣っている、その心持ちが健気でいじらしく、可愛らしい。
「お腹いっぱいになった?」
「あ、うん」
箸を止めて、あどけない仕草で口を動かす少年をじっと見詰めた。何か考え込んでいる様子で僕の不躾な視線にも気が付かない。時折咀嚼する動きがピタリと止まり、しばらく逡巡したあとにまた小刻みに顎を動かした。
「…………あの、」
最後の一口を食べ終えたころを見計らって、コクヨーくんがようやく口を開く。右手に箸を持ったまま、一度右の方に視線を動かす。鞄。財布?
「ああ。お勘定なら、いいよ。高校生がそんなに気を遣わないでよ」
「あ……、」
「……?」
「いえ、なんでもない。です。……ありがとうございます」
出来損ないの会話をそこそこに切り上げて店を出ると、満腹で眠気が差したのかコクヨーくんは眠そうに目元を擦っていた。あどけない仕草が可愛らしくて、自分がこの少年に少しずつ心を奪われ始めていることを嫌でも思い知らされた。人に気を遣いすぎるきらいのある性根をまざまざと見せつけられたせいだろうか。それとも、肉親の死という絶対的な悲しみを言葉少なにでも共有したせいだろうか。遠くから見守ってやりたくなるような、傍で甲斐甲斐しく手をかけてやりたくなるような、それでいて妙な劣情を掻き立てられるような――――。
この間のホテルでの痴態は隅から隅まで思い起こせるのに、いまいち現実感を伴っていない気もする。時折赤い顔を伏せて恥ずかしそうに僕の表情を窺う、空想に浸りがちなこの少年から砂糖菓子にも似た甘い声が上がったなんて、信じられない。結びつかない。寝起きに思い起こす夢のように茫々としている。
「コクヨーくんは、今日は大人しいんだね。この間は、なんというか……」
「そ……、あ、その」
シートベルトをいじくり回す指に時折力が込められたかと思えばゆるく動いたり、落ち着きがない。それを目の端に見止めながら車を出すと、コクヨーくんの自宅までの道のりを思い浮かべた。ここからだと二、三十分はかかるだろうか。出来るだけ多くの信号に捕まりたい。もっといろいろな話をしたい。離れがたい。胸の辺りが甘く痺れるような、重苦しくなるような、不思議な心地に悩まされる。今まで一度たりとも経験したことのない気持ちだ。
「お、俺……」
「ん?」
「その、き、緊張して……」
ああ、なるほど。思わず笑いが込み上げる。
「あはは、そっかあ。それならよかった、嫌われたかと思ってた」
「――――い、いや」
すこしだけ挟まれた無言がもどかしい。まだまだ距離がある。
ボリュームを絞った耳馴染みのメロディーが走行音にかき消され、暗闇のドライブを引き立てる。
「そういえば、帰りがけに一緒にいた子は?」
利発クンの苦い表情を浮かべながら問うと、コクヨーくんは『ああ』と相槌を打った。
「あ、えっと、浅倉、っていう子なんだけど、小学校からずっと……、その、友達、かな」
「友達ねえ……、ふうん、いいなあ。僕もコクヨーくんと一緒に授業を受けてみたいなぁ」
僕の何気ない言葉に、コクヨーくんは店の駐車場で買ってやった缶ジュースを勢いよく噴き出した。ネクターの甘い香りがふわりと漂ってくる。
「わー、もー、何やってるの。ほらそこ、ティッシュはダッシュボードにあるから」
「ごめっ、意外とカワイイことを言うんだなあと思ったら、おかしくて……!」
げほげほと盛大に咳きこむ傍らで必死に笑いを堪えている様が窺え、意外とは失礼なと慨嘆しながらも、彼の年相応の一面を見られたことが純粋に嬉しかった。
「コクヨーくんのそんな笑い方はじめて見たなあ。かわいいかわいい」
にやにやと笑い返せば、彼は笑みを仕舞い込んで真っ赤な顔を伏せた。僕はその時、ようやく彼のいる対岸へと足を向けられたような気持ちでいた。僕はこの大河を、超えようとしている……?
ムーンリバーが確かな輝きを持って僕の鼓膜を優しく震わせている。この河がどれほどの深さと大きさを持っているのか、心の中ではわかっているはずなのに。
ともだちにシェアしよう!