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ムーンリバー 4

 それからの時間はあっという間で、僕が話しかければ拙いながらも一言二言を返してくれるようになっていた。たまに“黒騎士”だとか何だとか、耳慣れぬ不可解な単語が出てきたのだけれど、それがまたこの少年らしくもあり、どこか高揚してしまう自分がいた。恥ずかしがり屋さんのコクヨーくんが惜しげもなく好きなものをさらけ出してくれているのだ。そう思うと、はじめは不気味に思えた言動も多少は好ましいと感じられた。たった一日で、たった一つの過去の共有で、僕はずいぶんと彼に甘くなったようだ。  自宅近くのあぜ道に車を停めたことでドライブは終点を示した。それなのに名残惜しいような気がして次の言葉が出せない。また今度、おやすみ、色々な言葉が回らぬ頭の端を通り過ぎて行くのだが、それは終ぞ口を衝かない。何かを言わなければと彼の方を見やるのだが、コクヨーくんも鞄を抱え直してはシートベルトを弄るだけでこちらを見向きもしない。しかし帰るそぶりだけは頑として見せず、たまに口元を歪めるのが気にかかった。どこかで野鳥の鳴き声がする。徐々に低下していく気温に震えながら星空に見とれる。 「あ、あの、秋津さん……」  静寂を破ったのは、意外にもコクヨーくんの方だった。少しばかり驚いてしまい、ふと向けた視線同士がぶつかり合う。目が合ったのはずいぶんと久しぶりだ。煌々と照る月光だか街灯だか、何らかの光を帯びる濡れた瞳が真摯にこちらを見つめていた。眉間に流れた髪の房に橋を架ける柳眉が僅かに寄っていて、その痛切な表情に一瞬、呼吸を忘れた。 「な、なに?」 「その、秋津さんがお休みの時、――――機会があれば、その……」  そこで言い淀むと、きゅっと薄い唇を閉ざす。火照りで頬が色付いていた。今まで解き忘れていたシートベルトを外し、僕は彼の方へ体を傾けた。努めて優しく先を促しながら髪を撫でると、ようやく堅く結ばれていた唇から力が抜ける。まるで蕾が綻ぶようなそれに、体中の血がぐらぐらと沸き立つ。 「その、その。あ、また、一緒に……!」 「いいよ」  聞き様によってはおざなりにすら思われるほど素気ない返答になってしまったが、彼が何かを言うよりも先に唇を塞いでしまった。 「ちょ、ん、ちょっと……っ!」  下唇を軽く食みながら、耳の裏側、後頭部へと手を滑らせる。口の端を舐めると、とろんとネクターの味がした。 「くちあけて」  てらてらと光る唇を指の腹でなぞると、彼は瞳を泳がせながらも素直に口を開けた。口内の暗がりから控え目に伸びている舌をすくい取れば、鼻にかかったような声が漏れ出た。それに気をよくして、更に身を乗り出してやわらかい唇を堪能する。勢いで窓ガラスにぶつからないよう、しっかりと右手を後頭部に宛がい、余った左手でしつこく耳を撫でた。傷一つない小さな耳に細かい産毛の感触。口付けの勢いで、後頭部に回した手の甲がごつごつとガラスにぶつかる音が小さく響く。手を置いていてよかった、コクヨーくんが硬い窓に頭をぶつけない。少し硬い髪の毛が僕の指の股をくすぐる。こんな小さな、性的ですらない刺激にすらとろけそうになる。 「はぅ、んん……っ」 「息、してもいいんだよ」 「っ、え……」  たどたどしくキスを受ける彼の鼻を指でつつくと、険しかった表情が少しだけ緩んだ。キスも初めてか。笑みを溢すと、コクヨーくんは焦ったように身じろいだ。 「いいから、そのまま――――」  逃げ場のない車内で後ずさろうともがく体を押さえ付け、やわらかく溶けた舌を吸った。甘痒い劣情が下腹から湧き上がる。言い知れぬ興奮に足先から昇るように熱を帯びていく。 「はう、っ」  上顎を舌先で撫でると、コクヨーくんの体が大きく震えた。でこぼこしたところも、つるつるしたところも全部舐めて確かめる。震える様が面白かったので何度もそこをしつこく舐め上げていると、彼の喉がこくりと鳴った。唾液を飲んでいる。  弱々しい力で肩を押されて、迷ったが体を離してやった。粘度の薄い唾液が僕たちの唇の間でぬらりと光る。それを指で拭って舐める。未だに熱を持ったままの唇が痺れるようにじくじくと疼いていた。 「こ、れ以上は……」 「昨日みたいなこと、したくなる?」 「ちが……っ」  冗談めかしでからかうと、コクヨーくんは芯の抜けた声できちんと否定した。恐らくは、嘘だろうけれど。肩で荒く息を吐く彼の頭を撫で、耳を撫でて、頬を撫で、もう一度啄ばむだけのキスを落として目のきわを滲ませている涙を拭ってやった。 「引き止めて悪かったね。付きあってくれてありがとう」  今一度くちびる同士が触れ合いそうな距離で話すと、コクヨーくんの元々火照っていた頬がひと回りほど発熱した。触れば火傷しそうなほどのそれに何度目か分からないキスをすると、彼は困ったように顔を背けてしまった。あまりいじめすぎるのも良くない。はじめてのことの連続で、コクヨーくんの情動はずいぶん目まぐるしく駆け巡っていることだろう。明日辺り高熱が出てもおかしくない。 「次は、そうだなあ、来週の日曜なら空いているかな。僕があげた名刺、まだ持っているよね? そこに連絡先が書いてあるから、また電話でもメールでもしてほしいな。どこへ行きたいの?」 「……、ゆ、遊園地……」 「ん? 遊園地に行きたいの? いいよ。……たのしみだね」  コクヨーくんは大きく二、三度頷いて破顔した。まさか昨日出会ったばかりなのに、いきなり遊園地などというコミュニケーションがものを言う場所に行きたがるとは。たのしみ、とは言ったものの、それよりも不安が心を支配する。歳の離れた僕と連れだって、果たして彼を楽しませてあげられるのか……。こればかりは考えても仕方がない。幸い、うれしそうにしてくれている。 「デートの約束みたいだね」 「えっ――――、」 「……冗談だよ。さあ、あたたかくして寝るんだよ。おやすみ」  彼がドアを開けると凍てついた夜気が飛び込んでくる。名残惜しげに緩慢に振り返るコクヨーくんは、 「また日曜日に」  と、か細い声で告げた。  ――――また日曜日に。その言葉の持つひそやかだけれど大きな意味合いを持つ“確約”に、僕の心はざわめいた。まるでデートの約束を交わした学生同士の恋愛だ。痺れるような動悸に僕自身が戸惑っている。コクヨーくんと物理的にも精神的にも近くなれる時間を作っていける。その事実が重くのしかかる。期待と、不安と、困惑と、やはり期待と――――。  近くなりたい、なってみたい。プライベートな部分にまで分け入って、寄り添ってみたい。言葉を交わすたびに、僕たちのあいだに横たわる大河が――――、月の光が映りこむほどに広大な大河が、浅く、そしてなだらかになれば良い。  そう想ってしまう心を遠い場所で持てあましている、そんな気がした。

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