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鎹 2

   *   *   *  とりあえず手近なところで、と秋津にエスコートされてローカルチェーンのコーヒーショップに来たものの、春斗はあまりの場違い感に固まるしかなかった。パッションフルーツやバニラの甘い香水を振った女子高生や、アフターファイブの若いOLでごった返していたからだ。春園と化した列に並びながら、後ろに並ぶ女の子たちが秋津のことを「あの人、かっこいいね」と小声で交わし合うのを耳にしてぎょっとした。この人は高校生の男相手に睦言をのたまうような男ですよ、と告げ口したくなる。そんな勇気があったならば、掃除当番を押し付けられることもないのだろうけど。  春斗は怪訝に、半歩前で手持ち無沙汰にスマホに目を落とす秋津をじっと観察する。確かに、かっこいいのだろう。身長も高いし、細身でスーツもきれいに着こなしている。さりげない時計も、ほのかに芳るオリエンタルな香水も洗練されている。黙っていれば、まあ、――――モテそうではある。 「どうしたの?」  上から下まで舐るような視線に気付いたのか、秋津が珍しく狼狽している。 「あ、いや……」 「穴が開くかと思った」  秋津は照れたようにはにかんだ。動いた列に倣って進む、その微かな空気の乱れに乗ってまた香水が香った。 「……っ!」  背後から抱き込まれて手淫をされた時も同じ香りがしたことを思い出し、慌てて頬を掌で打った。低い声で耳に吹きかけられた猥らな言葉を反芻しないように努め、春斗の前でしゃんと伸びる背に聞こえない程度にため息を吐く。 「彼女とか、いるのかなあ」 「え~? いるよぉ、絶対」  後ろの女の子たちはさっきより幾分か大きな声量で耳打ちし合う。何の気なしに会話を聞きながら、春斗は複雑な気持ちを噛み締めた。彼女、彼氏、恋人……。そういった特定の相手がいないからこそ、こうして先の見えない宙ぶらりんの情をかけてくれているのだと思っていたのだが――――。 (どうして俺にかまってくるんだろう。どういうつもりで、あんなことをしてくるんだろう……)  濃い夜の車中で、欲情した瞳を眇めて唇を貪られた記憶が水泡のように浮かびくる。 (暇つぶし、だったとしたら……? からかわれているだけなんだとしたら……?)  きゅっと鳩尾のあたりが縮み、手足が凍る感覚に陥る。唇を噛んだ。こちらに背を向ける秋津に対してどうして失恋めいた心情を渦巻かせなくてはならないのか、春斗は自分自身の感情が何に起因されているものなのかを悟りかけ、泣きたくなった。恋、まさか。 ――――あんなことをされたのははじめてだったから、はじめてあんなふうに他人と触れ合ったから、それとも、はじめて母の話を唯一の親友以外にしたから、そして偶然にも相手も同じ境遇だったから――――?  妙に遠く見えるスーツの後ろ姿に縋るような目を向けている自分に気付き、春斗は視線を外へとやった。晴れた午後の陽光がきらきらと輝いているのに、時分はこんなにも後ろ昏いもやもやとした気持ちを抱えて――……。  春斗の手は、自然と肩に提げている鞄へと伸びた。この中には、ずっと渡しそびれている、秋津と春斗を繋ぐ〝唯一の鎹〟が隠されている。これを突きつけてしまえば、秋津の目に触れさせてしまえば、きっともう、こうしてともに同じ用事で同じ時間を共有することもなくなるのだろう。唯一の鎹を喪えば、時間を共有する理由が春斗にはない。見付けられない。〝なんとなく会いたい〟なんて言えるはずがなかった。明確な理由がなければ、まるで淫行を働いてほしいと懇願しているようにすら見えてしまう。もちろんそんな気持ちは持っていない、はずだ。けれど、自分の気持ちを手に取って眺めることができない以上は完全にそれを否定することもできず、一人で悶々と落ち着かない心地を味わい進退のない葛藤を繰り広げるしかない。  レジへ向かう列が次々に流れ、春斗は秋津の背中をうつむいて追いかけながら、ふいに自分と秋津を取り巻くすべての接点が喪われたような気がした。 「元気がないね」  ガヤガヤとした店内の奥のほう、照明があまり届かない角の席で熱いカプチーノを啜り、秋津は上目がちにこちらを見やる。あ、と唇が開くもののどう答えていいかわからず、春斗はアイスチャイの上に乗ったソフトクリームを意味もなくスプーンで掻いた。シナモンの香りが鼻をくすぐる。 「ひとの子の中で身分を隠し過ごすというのは、大変なんだよ……」 「覇気もないね」 「そ……、我は黒騎士ヴィルグルフトぞ。我は、我は……」  大きなため息が出た。うまい具合にせりふが出てこない。 「本当にどうしちゃったの? 体調でも悪い? 勉強がわかんないとか?」  だるそうに頬杖をつき、ん? と顔を覗き込まれた。瞬時にさっと距離を取る。 「たっ、体調は良い。良いです。勉強は、数学が少し……」 「苦手なの。僕、数学は得意だよ。教えてあげようか。見せてみなよ。いま、どのあたりを習ってるの?」  秋津が作ってくれたスペースにおずおずと教科書と課題のプリントを差し出し、指で指し示す。秋津はどれどれ、とそれを眺めると、 「このあたりなら大丈夫。教えてあげられるよ」  と言って、人好きのするような微笑みを向けた。その笑顔を真正面から受け止め、春斗は言葉を詰まらせる。目元にほくろがあること、彼が身じろぐと、流した前髪がそのほくろを隠すようにさらりと揺れることを、今知った。そういえば、恥ずかしくってまともに顔を見たことがなかった。ふいに体が熱くなる。つい先日、かわいいなあと密かにあこがれていたクラスの女の子が、『吉田君って会話のテンポが悪いよね』と陰口を叩いていたことを知り、人生初めての淡い淡い恋を終わらせたのだが、その時の恋慕とは比較できないほどに強烈な熱量が一気に頬から弾けるような感覚だった。ほのかに笑みを象る薄い唇が、つい先日の夜の中で自分の唇と重なり、あまつさえ唾液の交換まで行ったのかと思うと重篤なめまいを覚える。 「あき、……」  少しばかりの空気の揺らぎで掻き消えそうなほどにか細い声の震えを拾い、秋津は教科書を繰る指を止めた。 「秋津さんは、こ、恋人とか、いる……? いる、の、ですか?」  心臓がばくばくと高鳴る。この質問を投げかけることで意識していることが確実にバレてしまうとは承知していたが、もはや衝動を止められることなんてできなかった。思春期ゆえの無鉄砲な好奇心の赴くまま、春斗は一瞬にして自ら無防備なこころを曝け出した。リスクなど頭になく、差し出した剥き出しのこころには目もくれず、ただ火照った頬だけを黒髪で隠す。秋津は考えるように視線を宙に躍らせ、合点がいったのかにへらっと破顔した。 「はは、そんな人がいたら、君にあんなことしないよ」 「……っ、は。そ、そうなんだ……、ですか」  止めていた呼吸を再開して、悟られないように胸を撫で下ろす。いない、恋人はいない、何度も何度も心の中で反復する。熱い呼気を惜しげもなく吐き出す。 「そんなことを聞くなんて、どうしたの」 「べっ、別に、その、あの、 そ、わ、我が秘術である読心術の成否を確かめ……」 「コクヨーくんが僕の恋人になる?」 「へっ!?」  あわあわと取り繕う嘘にかぶさるように、秋津は何でもない風にサラリとそう言ってのけた。あまりのことに頭が真っ白になる春斗をよそに、しばらくそのまんまるの瞳を真顔で見つめ、 「冗談だよ」  と、こちらの気もお構いなしにまたゆるく微笑まれる。 「びっ……くり、した」  大きく息を吐きながら胸を押さえ、春斗は熱くなった顔を手扇子で扇いだ。少しだけ薄くなったチャイをぐいっとグラスから直接飲み、鼻に付いたクリームを慌てて拭う。落ち着きのないその挙動をじっと眺めて一つ息を吐くと、秋津は広げたままの教科書を指でなぞった。 「さ、お勉強する? 家庭教師のバイトをしていたこともあるから、安心していいよ」 「……よ、よもやその生徒にも……」 「してませんから」  きっぱり否定される。そこまで堕落はしていないようで、心底安堵する。 「――――コクヨーくんだけだよ」  小声でそう続けられた言葉は、隣の席を立つ女性組の姦しい声で掻き消された。

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