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ナイト・フラッター 1
寝起きはいい方だと自信を持って言える。昨夜も日付が変わる随分前に寝付けたし、スズメが鳴くまで一度も目を覚まさなかった。春斗が世界で一番の変人だと思っている知人のサラリーマンが夢に出てきたが、うなされて飛び起きる事もなかったはずだ。恐らく。しかし、寝付きの良さとは引き換えに極端に寝像が悪い。寝ている自分の姿を見ることはできないので、他者の訴えを素直に認めれば、の話だが。
「フッ、昨夜も我の中の黒龍が暴れたようだな」
そんな言い訳をしながらも、どういうわけかベッドよりもはるか彼方へ転がってしまっている掛け布団を毎朝直さねばならないのだから、まあ、その訴えもあながち間違いではないのかもしれない。せっせと布団の皺を伸ばし、両手で押さえるようにして整える。今は羊柄の布団にくるまって眠っているのだが、いずれはベッドを取っ払って豪奢な棺桶で眠りたいと思っている。黒騎士もいいが、吸血鬼もなかなかにかっこいい。しかし、唯一の友人である浅倉に、「棺桶で眠るのって、かっこよくないか?」と相談したところ、何かのはずみで蓋が開かなくなった場合はどうするのだと詰問され、今は心が揺らいでいる。
父にせがんで買ってもらった漆黒の遮光カーテンを開け、瞳を眇めた。不敵に笑む春斗のこころは、しかしすぐに秋津という〝未知〟に支配される。
ふと、視界の端に留まった勉強机が異様な存在感を放っているような気がして、ぎくりと足を竦めた。半歩ほど後退しかけてぶんぶんと頭を振る。
ブラックボックス、パンドラの箱、そして免罪符。机の引き出しには厳重に鍵がかけてある。その中にある紙切れが春斗のこころを縛り、そして同等に背を押している。
あの中にあるのは――――……。
唇をゆがめて踵を返した。今はまだ、決心が付かない。
まったりとした朝陽に街角は照らされる。高い空、実りの秋、それら全てを押し流すかのように、少しずつ冬の気配も混じりつつある。どこにでもある日常の一コマ、秋の土曜日。山々は黄金に衣替えし、ぽつぽつと灯る紅葉が目にも鮮やかだ。遠くで鳴く犬の声や、ジョギングをする人の足音を聞きながら、春斗はようやく階下へ下りた。
「おは……」
物音のする和室を覗き込み、朝の挨拶を飲み込む。父である吉田大樹が仏壇に手を合わせていたからだ。遺影の中の母は、春の陽光にほころぶ花のような笑顔でこちらに白い手のひらを向けている。毎夜、大樹がその手のひらを指でなぞっていることを春斗は知っていた。遺影と対峙する父の姿からは寂寥は感じられず、むしろ冷え切った体をあたたかいスープでじんわりと暖めるような、息抜きめいたひと時に感じられた。母が逝去してからしばらくはずいぶんと憔悴していたが、かなしく辛い記憶を思い返すだけではなく、ようやく宝石のような記憶を大切に慈しめるようになったのだ。春斗はその背をしばし眺め、邪魔しないよう、足音を忍ばせながら仏間を通り過ぎてキッチンへと向かった。
母が亡くなったのは、小学校に上がってすぐの緑が眩しい初夏のことだった。
もともと自己免疫疾患により体が弱くて定期的に通院をしていたのだが、病状も安定し体力も付いたということで検診の期間も伸びた矢先に癌が見つかり、しばらくの入院ののち、肺炎で若い生を閉じてしまったと聞き及んでいる。今でこそ春斗は風邪しらずの健康優良児だが、幼いころは寝込みがちで、そのたびに布団で母親に子守歌を歌ってもらっていたそうだ。記憶の中を揺蕩うメロディーは美しい回遊魚のようで、今でも容易にこころの深い場所から呼び起こすことができる。
――――優しい夢を見るんだよ。
薄い桜色の唇でムーンリバーを口ずさむやさしい母。あたたかくて、きれいで、春色のような母だった。
春斗もこころの中で母に手を合わせてから、よし、と声に出して小さく気合を入れる。料理は家事の中で最も得意な分野で、そして趣味の一つでもあった。
毎日、父と自分のためだけに料理を作る。休みの日は三食、平日でも夕飯は必ず作るようにしている。得意分野を褒められることはなによりもうれしいし、それがなくとも大樹に作らせると散々な結果になってしまうので春斗が作るよりほかないのだ。
冷たい麦茶で喉を潤したあと、よし、と本日二度目の気合いを入れた。心配性なので玄関のカギは閉めたあと何度もガチャガチャするタイプだし、ゲームのセーブは念入りに二、三度度繰り返す。心配性というよりも、自分を信じられないタイプなのかもしれない。よし、三度目の気合いを入れる。ここまでくるといっそ、気合いなのか合いの手なのか分からなくなってくる。
寒くなってきたので、朝はあたたかいスープが欲しい。あれこれ献立を考えながら冷蔵庫を開け、中身の少ないマーガリンを取り出した。バターは家計を圧迫しかねないので、吉田家では滅多にお目にかかることはない。
浅倉の家に泊まらせてもらったとき、朝食のトーストに真四角でクリーム色の、正真正銘のバターが乗っていて感動したことがある。
『お前がいるから、おふくろは気合いをいれて用意したんだよ』
浅倉は照れた表情でそう苦笑し、二人してわいわい騒ぎながらバタートーストを食べた。人生のうちでは取るに足らない些細な思い出なのだろうが、思い返せば、料理、延いては食材や人に振る舞うということに興味を持ったのは、そのとろけるようなバタートーストのおかげだったのかもしれない。
二人分の料理をテーブルに並べ終わった頃、大樹がのろのろとダイニングにやってきた。あたたかい仏間で転寝をしていたのか、髪がひょろんと変に跳ねていて元来よりもより一層ゆるい雰囲気を引き立てている。
「おはよう、準備してくれていたのか。おっ、今日のごはんもおいしそうだね」
「別に、これくらい普通だって。それより、寝ぐせ。直してきたら?」
初めてのことでもあるまいに、こうも毎日すごいすごいと誉められると、嬉しいを通り越して恥ずかしくなってくる。春斗は大あくびをもらす大樹を洗面所に押し込むと、一足早く食事を始めた。いまごろあの人どうしているだろうか、もう起きただろうか、まだ夢の中だろうか。トーストをかじりながら思うのは、秋津の軽薄そうな割に私生活へと踏み込む話をしない霞越しの距離感と、しなやかに熱い指のことばかりだった。
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