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ナイト・フラッター 2

 朝食を済ませて父と共に洗濯を干していると、おしりのポッケが震えた。メッセージが届いた合図だ。差出人をなかば確信しながらアプリを開く。やはり、秋津だ。液晶の向こうに広がる真っ白な洗濯物も、更に輝きを増して春斗の世界を輝かせる。 《おつかれ。今夜、電話してもいいかな? 日曜日の予定を確認したいんだけど、どうでしょう》 《ククク。ひとの子とは違い、黒騎士である我に疲労など無いのだ。  我は九時に深き眠りに堕ちる定め故、それまでであれば承れるであろう。  》  返信はこんなものでいいだろうか。春斗はたっぷり迷い、ようやく送信ボタンを押して深呼吸をした。 「夜、電話……」  小さな液晶画面を見つめてはにやける顔を引き締める。何度も何度も端末を眺めては熱いため息を吐いて、そのたびに柔軟剤の香りを肺いっぱいに取り込んだ。抱き締められた時、秋津は柔軟剤ではなくオリエンタルな香水をくゆらせていた。体温で蒸された生々しい香りまで思い出し、いよいよ両手で赤く熟れた顔を覆った。  ピアノとトランペットの悩ましいモード・ジャズの旋律がくゆる暗がりの席で、伏し目がちに教科書を人差し指でなぞる秋津の姿が、今でも紫煙のように、陽炎のように脳裡をふらふらと泳いでいる。  休日だというのに交友関係の多い浅倉は多忙を極めているらしく、春斗は完全に時間を持て余していた。元々インドアとはいえ、機械音痴な春斗はあまりパソコンが得意ではない。それでも暇つぶしにでもと、浅倉に『お前の好きそうなブラウザオンラインゲームがあるぞ』と教えて貰っていたのだ。なんとか記憶からタイトルを引っ張り出して、公式サイトを開いた。  どろんどろん、でででで、というあやしげな音楽が流れ、画面いっぱいに紫の靄が立ち込める。そして靄が晴れると同時に壮大な音楽に切り替わり、次々にかっこいいキャラクターが浮かび上がった。そのどれもが黒いマントや甲冑を付けているのがどうにも春斗の夢見がちな心をくすぐる。大きな文字で表示された煽り文句が、空想家の輝く瞳に飛び込んだ。 『無料で遊べるダークファンタジー! 初心者サポートですぐに友達ができちゃう! 仲間とチャットをしながら敵を倒して、君だけのキャラクターを魔王に育て上げよう!』 「友達ができちゃう……」  次の瞬間にはユーザー登録を済ませていた。春斗にとってはこれ以上ない殺し文句だった。はじめてのオンラインゲームに胸が逸らないわけがない。 (ギルド名は何にしようかなあ、どんなキャラクターにしようかなあ。“ヴィルグルフト様”なんて呼ばれちゃったりして!)  すっかり春斗の頭の中では、全てのユーザーから一目置かれる最強の黒騎士として称賛されるビジョンが浮かんでいた。インストール完了、というアナウンスにごくんと唾を飲み下して、画面に身を乗り出しゲームを起動した。 「ひゃわぁ……」  起動できた! 拳を握って天高く突き上げる。緻密な美しいグラフィックでプロローグが語られ、春斗は身を乗り出すようにしてあらすじに目を通した。古の暗黒神が総べる魔界、黒衣の賢者達が総べる地下ギルド、全知全能のブラックサヴァン、禁呪の錬金術。そのどれもが春斗の追い求める理想そのもので、歓喜に開いた口からは涎が滴り落ちそうだった。 『性別を選択してください』  いよいよキャラクターエディットだ。迷わず男を選択する。 『名前を入力して下さい』  †~復讐の焔と鮮血の血桜・深遠なる円卓の黒騎士ヴィルグルフト・ヴィンセント・ヴィズノワール† 『長すぎます』 「えっ」 『十文字以内で入力して下さい』 「じゅ、十文字……!」  肩書きはお気に入りだから削りたくないし、かと言って名前を削れば何がなんだかよく分からない。春斗は苦悶し、苦渋のすえ仕方なくタイプし直した。十文字という制約上、もはやこれしかあるまい。  “黒騎士ヴィルグルフト”  なんだかインパクトがなくなってしまったような気がする。せめてダガーの記号は入れたかった。釈然としないが次の行程へと移るしかない。涙目をこする。 『職業を選択してください』  ここが悩みどころ。騎士、魔法剣士、双刀剣士、大剣士、ニンジャ、魔道士、アーチャー、格闘家、シーフ、ガンマン。春斗は投げ出したくなった。種類が多すぎるのだ。黒騎士か魔騎士があれば迷わずそれを選択するのだが、それらが見当たらないうえ、大好きな剣士が三種類あるのもつらい。どうして黒騎士も魔騎士も存在しないのか。どう考えたって魔法剣士よりも魔騎士の方がかっこいいし、ただの騎士よりも黒騎士の方がかっこいいに決まっている。マウスを握りしめ、しばし悶絶する。魔法はとても魅力的なのだが、魔法剣士を選択してしまえば騎士とはかけ離れたものになってしまう気がするし、かと言って黒でも魔でもないただの騎士では、いくら誇り高かろうが有象無象の騎士集団の中の一人になってしまいそうで躊躇する。春斗が求めているのはただ一つ、誇り高く、高貴で孤高、絶対無二の力を持つ、さすらいの黒騎士――――! 『魔法剣士を選択します。よろしいですか?』  はい。  春斗は涙を流し、嗚咽する。志を曲げ、騎士ではなく剣士を選択してしまった己を幾度も叱責する。 (魔法という魅力に勝てなかった! 勝てなかった! 俺という奴は! 騎士の魂を売り払った堕騎士だ!)  その瞬間、天啓が降りた。 (――……、堕騎士、いいな。いい響きだ。かっこいい)  堕天使ならぬ、堕騎士。絶対的な力と誇りを持つが故に謀反を起こし、魔界へと永久追放された聖騎士。純白のマントと甲冑は漆黒に染まり、手には聖なる者の鮮血を啜るまがまがしい漆黒の大剣が握られていた。そして黒き聖騎士は、惧れをなした遍くすべての生物から畏怖の念を込め、やがてはこう称されるのだ。  昏き血染めの堕騎士、と――――……。 「ふふ、堕騎士……」  組んだ両指の上に顎を乗せて恍惚の笑みを浮かべる。 (オンライン登録名、堕騎士にしておけばよかったなぁ……)  慣れない操作に戸惑いながら悪戦苦闘し、一区切りついたところで携帯を手に取った。メッセージが届いていた。 《忙しい魔騎士様に無理を言ってごめんね。じゃあ、八時ごろに電話するよ。》 《クク、仰せのままに……。  それと、今宵より我は堕騎士へと墜ちるゆえ、真の名を心の臓へと刻んでほしい。ククク。  八時ですね、わかりました。夕方から天気が崩れるみたいなので洗濯物には》 「気をつけてください、と。よし」  そこまで文章を打って、ベッドに倒れ込んだ。  人とのやりとりは苦手だ。どう書いていいか分からず笑い声を多用しすぎたような気もするし、最後の方なんて普通すぎる文面になってしまった。 (秋津さんも、堕騎士をかっこいいって思ってくれるかな……)  ごろんと転がり、瞳を閉じる。  春斗がファンタジーを好むようになったのは、クリスマスプレゼントに貰ったドラゴンが活躍する児童小説や、大樹が買い与えてくれたゲームに感銘を受けたことがキッカケだった。物語の中で、はじめは弱い主人公が努力を重ねることで強くなり、嵐を起こしたり傷ついた仲間を癒やしたりできるほどに成長するのだ。種族の違う妖精やドワーフと絆を結び、手を取り合って強大な敵に立ち向かう姿に憧れた。布団の中に懐中電灯と小説を持ち込んでは夜更かしをして、そのたび大樹に叱られていた。 (いつか、病気も倒せるような強い勇者になりたいなあ……)  子供のころの純粋な春斗はそう夢見て、ファンタジー小説を抱いて眠った。  そして幼い夢想は思春期を迎えても消えることはなく、むしろより一層強い念となって現在の少々歪んだ空想家としての側面を色濃く残してしまった。突出しすぎた嗜好は時として同年代の嘲笑を攫うわけで、そのことに気付いた春斗は以来、人前で大好きなファンタジーの話をしなくなった。唯一、幼稚園からの幼馴染みで事情をよく知る竹馬の友の浅倉とだけ、こっそりと神話の世界の生き物や架空の歴史の話をしている。隠れるように、人目を気にして、こっそりと。  はなから理解されるとは思っていない。理解を求めて傷付くよりも、好きな趣味を隠し通した方がずっと楽だと悟っていた。しかし、しめやかな世界の箱庭の扉が開いたのは、ついこの間のことだった。 『こんばんは。何をしているのかな?』  そういって電光石火のように現れた秋津は、最初こそ異次元のことばを重ねる春斗に当惑していたが、必死に言いつのるだけの稚拙でへたくそな語り部に、 『それで、そのあとはどうなったの?』と、話の続きを促してくれた。君のその口調は、どんなストーリーに影響されたの? とも。  影響もなにも、我は生粋の黒騎士で云々と定型文のような口上を述べてから、大好きなゲームのあらすじを説明したり、敬愛する作家の小説のあらすじを述べたのだが、秋津は鬱陶しがることなく、かといって興味を示すわけでもなく、ただ淡々と『ふぅん』だとか、『へぇすごいじゃん』と相槌を打っていた。適当に聞き流しているのかと思ったのだが、興奮しながらまくし立てるあまり自分でもストーリーの道筋が分からなくなった春斗が言葉に詰まると、秋津は今まで聞いた内容を要略し、迷子になった語り部を正しい道筋へと導いてくれた。そのとき、春斗は見慣れぬ青紫のネオンに照らされる秋津の横顔を見上げ、瞳を大きく見開いて背を振るわせながらこみ上げてくる歓喜に虹彩を揺らしていたのだ。  はじめてのことだった。自分の好きなものを頭ごなしに否定せず、馬鹿にもしない。流行のドラマや映画の内容を気ままに駄弁るかのように、春斗の好きな幻想の世界をありのまま是認し、耳を傾けてくれる人が現れたのは。その時の飛び上がるほどうれしい気持ち、そして安堵と解放感を、秋津にはまだ伝えられていない。きっと秋津は、あの時の会話が春斗のこころに深く深く、親愛を持って刻まれたということを、想像だにしていないだろう。いつか、もっと緊張せずに目を見て喋られるようになったらきっと伝えたい。  あなたにとっては些末なことだろうけれど、あの時からずっと、今もずっと胸がいっぱいになるほどうれしいのだと。  ぐるぐると渦を巻く親愛に耐えきれなくなって、身悶えながら枕を抱き締めた。薄桃色の妄想に支配される前に、気を取り直してパソコン画面にふらふらと近寄った。何の気なしにのぞき込み、ア、と声にならない悲鳴を喉から絞り出した。  草原に横たわっている堕騎士ヴィルグルフト様がいた。残念ながら死んでいる。 「な、ど、どういう事なんだ!」  慌ててチャットの履歴を見ると、赤文字で〝レアモンスター襲来〟という一文が残されていた。どうやら春斗が離している隙に、数百分の一の確率で出現するというレアモンスターが襲いかかってきたらしい。忽然と姿を現したレベル三百オーバーのモンスターに瞬殺される、冒険したての堕騎士――……。 「う、うそだ……、そ、そんな、う、ううう……!」  両手で顔を覆ってむせび泣く。こんなはずではなかった。いずれ全てのプレイヤーを凌駕するほどの有名プレイヤーになる予定だったのだ。〝ヴィルグルフト様〟と奉られ崇められるような存在。まさに至高のゲームマスター。モーゼの行進がごとく、春斗が歩けば人の山が割れるような――……。  春斗は泣いた。泣きながらパソコンをシャットダウンし、傷心の身でもぞもぞと布団にくるまる。布団のやさしい闇の中、携帯電話の受信ランプが慰めるように点滅していた。洟をすすりながら携帯を手に取ると、秋津からだった。ずたずたにされたこころが少しだけ高揚し、気分が落ち着く。 《駄騎士? 駄目騎士って、さすがに格好悪くない?》  春斗は泣いた。この世に己の味方はいない。まさに今、春斗は絶望に堕ちたのだ。 「お布団さんだけ、お布団さんだけだよ、俺の味方は……」  布団のやさしく甘い闇が気遣うように春斗の涙を吸い取る。心から安息できる、布団という甘やかで深淵なる闇。やはり人は闇より生れ墜ち、闇へ帰す定めなのだ――――。  身を小さく小さく縮こめた春斗は、やがてすんすんと鼻をすすりながら悲しい眠りへと落ちていった。

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