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ナイト・フラッター 3

 部屋に落ちた翳で目を覚ました。時計は午後五時を指している。予報通り、雨雲が小雨とともにずいぶんと早い夜の帳を運んできたようだ。しんと静まり返った部屋はずいぶんと冷え込んでいる。一度大きく身を震わせ、春斗は布団から這い出た。ぱちぱち、と電燈の紐にくくりつけた延長紐を引っ張る。その先に付いている夜光チャームが反動でふらふらと漂い、暗い部屋の中で蛍を一匹、放し飼いにしているような気分になった。  ここ数日、アメダスが知らせる天気は雨と曇り模様ばかりだ。今年は冬の到来が例年よりも早いのかもしれない。  週明けには数学のテストがある。いつもなら渋々といったていでテスト勉強を始めるのだが、今夜は胸を高鳴らせながら教科書を開いた。カフェで秋津に勉強を見てもらった時のことを逐一思い出しながら、彼がやったように問題文を指でなぞっては頬を弛緩させた。頭の中が色事でいっぱいなのではと疑ってしまうような秋津でも、勉強、とりわけ数学は得意なようで、数学嫌いの春斗はひそかにあこがれていた。根本的に数学というものをきちんと理解できているようで、教え方がとても上手い。まるでパズルのように数式をあてはめて行く様はとても心地良く、苦手なはずの複雑な公式も苦心せずに向き合えた。聞けば、学生時代から長く家庭教師や塾講のアルバイトをしていたらしく、今でも時々、知人に頼まれては家庭教師の真似ごとをしているそうだ。その生徒を心なしか羨ましく思う。  頭の中が理路整然としているのだろうということが手に取るように判り、憧憬と同時に、すこしだけ怖くなった。冷静に観察されるというのは、恐ろしい。春の陽気のようにゆったりとした穏やかさと気だるさを孕んでいる秋津の、すっきりとした薄い唇から数字が零れた途端、なぜか哀しくなることがあった。冗談や思わせぶりな思慕めいたせりふを囁く唇が、一転して冷たい氷を吐き出すかのように思えるから不思議だ。数字というのは、僅かに冷たい。全てを0から9で支配することができる。いつか自分も数字のように整理整頓されて片付けられてしまう気がして、怖くなってしまう。  そんな事を思いながら意味も無く教科書をいじり、ため息を吐いた。時間ばかりが過ぎてしまった。秋津のことを考えている時間がいやに多くて、すこし困ってしまう。  昏い瞳で、机に哀しげな視線を投げた。躊躇いがちに引き出しの鍵を差し込む。カチャリと容易く開いたブラックボックスの中身は、薄い封筒ただ一枚だけだ。のり付けのされていないその薄闇の中には、はじめて秋津に出逢った時に押し付けられた数万円が入っている。 『あげるよ。いやなことさせちゃったし、迷惑料だと思って好きな漫画でもゲームでも買いなよ。プレゼントされたと思ってさ』  そう言って、秋津は感情のわからない顔で笑った。その場で突き返せば良かったのだが、あいにく春斗は人生を根底から覆す、生々しくて熱っぽい出来事に頭がいっぱいいっぱいで、訳も分からずお金を受け取ってしまったのだ。以来、このお金は春斗の胸をいつも重苦しくさせている。会う度に返さねば、返さねばと思うのだけれど……、もしも返してしまえば、春斗が秋津に会う理由はなくなってしまう。  返さなければ、という義務感と免罪符があるからこそ、春斗は秋津に会う理由を与えられるのだ。 (お金を貰って継続する関係、なんて……)  いやだ。ならば、どうすればいい。好きだから会いたい、求めたい。もっと知らないことを教えられたい。……秋津は、どう思うだろう。こころが欲しいと口に出してしまえば、態度に出してしまえば、返金という免罪符をこころに棲まわせないままのこのこ出向いてしまったら、秋津がどこか遠くへ行ってしまうような気がしてならなかった。 (会う理由が欲しい……)  蛍が飛んだ。部屋の中を舞う、まがい物のひとりぼっちの蛍が。  食卓に料理を並べ、例によって隣でそわそわと見守っていた大樹を席に座らせる。 「ブリ大根、作ってくれたんだ! 父さんの好物だよ!」 「そのつもりで切り身を買って来たんでしょ。好物なのはいいけど、よく噛んで食べないとまた胃が痛くなるよ」  すんすんと匂いを嗅いでは表情を緩ませる大樹に釘を刺す。もう若くはないのだし、焦って喉に詰まらせてもらっても困る。 「……………………、」  いつもなら大樹の方から談笑を持ちかけてくるはずなのにやけに静かだなと視線を投げると、意外にも神妙な顔で俯いていた。目を丸くする。 「どうしたの」 「いや……」  言い淀まれると余計に気になる。あまつさえ上目づかいにチラチラとこちらの様子を窺うのだから、聞いてほしいのか聞いてほしくないのか判断が付かない。 「いま言わないと、ブリ大根一生禁止」  ウ、と不満げな声が漏れ、空になったブリ大根の皿と春斗の顔を何度も見比べながら大樹は顔を歪めた。 「どう言葉にするべきか……」 「うん?」 「――……父さんが再婚するって言ったら、春斗はどう思う?」  箸でつまんでいた野菜が落ちた。 「え? そんな人、いるの?」  信じられない。たしかにそういった縁が生まれてもおかしくない年齢であり、大樹自身多少なりとも実年齢より若く見えるので再婚の機会に恵まれても不思議ではないだろう。現に、世間話の感覚で、『再婚しないの?』と聞いたことはある。屈託のな春斗の問いに、大樹は目を瞬いてお茶を濁していたような気がする。  実母のことはいまでも面影を探してしまうし、寂しさも感じる。どれだけ年月が経とうが最大級に好きで、この瞬間にも一緒にいられたらと布団の中で涙する夜もあるけれど、それ以上に〝いま〟を生きている父親のしあわせを考えたいと思っている。だからこそ、たとえ再婚話が浮上したとしてもこころから応援するつもりでいた。それはたしかだ。しかし、現在に至るまでそのような素振りはまるで見せなかったし、いつまでも亡き母の遺影に手を合わせて眦を溶かしているのだから、きっとこの先も再婚という選択肢はないのだと勝手に思っていた。高をくくっていたとも言うべきか。 「いや、そういうわけじゃない」  きっぱりと否定して、大樹はため息交じりに顎の下で組んだ指を組み替えた。 「ただ、最近考えるんだよ。春斗に家事を押し付けてしまっているという意識がどんどん強くなってきていてさ。おれは家事全般苦手だし、もしも家族が増えたのなら、すこしは三人で分担できるんじゃないか? もちろん、相手の意向もあるだろうけど……」  そう思って。言葉尻がごにょごにょと消えるのは、恐らく自分自身でも納得のいっていない考えだからだろう。こぽぽ、と熱いお茶を注ぐ暢気な音がいやに大きく響く。渋面を作る大樹の前に熱い湯飲みを置いた。玄米茶の香ばしい匂いが遠ざかる。 「まぁ……。父さんが再婚したいと思える人がいたなら、いいんじゃないかな。俺だけじゃどうにもならないこともあるし、先のこととか考えたら悪い話じゃないとは思う。家も華やかになると、おもう……」  実際、家事が追い付かない事が最近多くなってきている。掃除や洗濯などは大樹がやっているが、やはりサラリーマンだ。残業もたくさんあるし、仕事上の付き合いで夜が遅くなることだってある。春斗も勉強をおろそかにするわけにはいかず、今日だって少し溜まってしまった洗濯物をふたり一緒になって必死に干したところだ。家政婦のような役割を押し付けたい考えがあるわけでは決してないのだが、たしかに、家族、さらに言えば女性の手が増えればそういった面は格別な助けとなるだろう。  ただ、だからといって、それだけを理由に新しい家族を迎え入れるのは、道理的にも無理だ。まず心情として、亡くなった母との忘れがたい、離れがたい想いは時間が解決してくれるとは言っても、新しい家族――、大樹の妻となり、春斗の新たな母になる人物にとってはそうはいかないだろう。ぽっかりと空いてしまった、未だあたたかみの残る椅子に座るプレッシャーは計り知れない。いくら大樹と心を一つにしたとて、突然思春期の子供を持たねばならない覚悟は相当なものだろう。  長い時間をかけてたどたどしくそう告げ、春斗は熱い茶で喉を潤した。 「けど、そう思える人がまだいないのなら、父さんこそ無理をする必要はないと思うよ。簡単なことじゃないでしょ、再婚も。俺を想ってそう言っているのなら、それこそ余計な気遣いだし。料理は好きでやっているだけで、出来ないよりも出来た方がいいし。実際、料理なら自分の力になるし、それに……、あ、いや、その、まあ、そういうこと」  料理が好きだから、将来そういった職業に就きたいとはまだ照れくさくて言えなかった。大樹のためにやっているからこそやりがいがあるのだということも。  照れ隠しにいつもより饒舌に語る春斗に、泣き上戸の大樹は目頭が熱くなるのを感じた。てっきり息子の性格上、いまさら他人と暮らすなんて無理だとつっぱねられるのではないかと想像していたのだが、きちんと自分の考えを話してくれた。あまつさえ、言葉の端々に父への思いやり、未だ見ぬ再婚相手への思いやりが見受けられて猶更こころを強く打った。自分の与り知らぬところで子供はいつの間にかひとりで、もしくは誰かとともに成長しているのだと、息子のほんの少し大人びた穏やかな表情を滲む瞳に焼き付けて悟った。 「そう、そうだな。うん、……うん。ありがとう、春斗」 「ああ、うん。まあ焦らずにね。考えなきゃいけない時がきたら、その時に良いと思えるものを選んだらいいじゃん。あと、片づけるから早く食べてしまって」  最後は投げやりに会話を切り上げ、春斗は洗い物をシンクまで運んだ。父が鼻をすする音が背中を撫でる。かなり照れくさい、慣れぬことを言って熱っぽくなった体に冷たい流水がきもちよかった。

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