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ナイト・フラッター 4

   *   *   *  手が震える。唾を飲み込む音が体内から聞こえる。手にした携帯端末の液晶には、十九時四十八分と表示されている。いつ来るか分からぬ着信を待つ時間というのは、つらい。特に、普段まったくと言っていいほど電話に用事のない、コミュニケーションにネガティブな人間にとっては地獄に等しい。  何を話すのだろう、こんな端末を介して、何を話したらいいのだろう。秋津は何を話すのだろう、今日は、をしたのだろう。どんな嬉しいことがあって、どんな困った事があったのだろう。聞きたいこと、知りたいことはたくさんあるのに、身振り手振りでの疎通がない、声帯の振動、あるいは生活音だけのやり取りで、口下手な自分が上手く会話を繋げられるだろうか。  知りたいということは、相手を好いているという証明だ。好きだから、ぜんぶを知りたい。どんな小さなことでも、ぜんぶ――――。  秋津は、聞いてくれるだろうか。春斗の過ごした、今日のことを。どんな事をしていたのか、どんなものを食べ、どんなことを思っていたのか。  春斗はベッドの上で携帯電話を前に、猫のように丸まって目を閉じる。 (もう秋津さんは携帯を手に取っているかな。今、俺のことを考えているのかな。そうだ、コクヨーくんに電話しなきゃ、とか思ったりしているのかな)  この端末の向こうで、秋津は――……。考えれば考えるほど、全身が熱くなる。緊張で体が震えるほどに。  きっと秋津ならば、約束の時刻よりも少し前に電話をかけてくるだろう。まだ知り合ってからそんなに経っていないのに、少しずつ相手の行動が読めるようになっている。一緒に過ごした時間は少なくとも、考えている時間が長い。朝起きてカーテンを開ける時も、着替える時も、ごはんを食べている時も、歯を磨いている時も、電車の中でも、授業中でも、お風呂でも、テレビを見ていても、そして眠っている間でさえも――――。  ぼんやり、とした瞬間だった。無言を貫いていた携帯電話が振動する。流行の恋煩いのメロディーが流れる。 「うわ、う、うわ……!」  一度手に取って、また投げ出す。そうしている間にも、メロディーは悩ましく歌い続ける。緑のランプが追い詰めるように瞬く。 「……、も、もしもし」 『もしもし! よかったあ、出てくれないかと思ったよ。どうせコクヨーくんのことだから、繋がった瞬間に、“ククク我だ……”とか言いそうなのに』 「おれ、わ、我はそんな言い方はせぬぞ」  やわらかい笑い声に、ほっと力が抜ける。未だに細かく震える指は白く冷たいが、やはり声が聴けて良かったと心底思った。受話器越しに、喉で笑うかすかな吐息が伝わる。普段とはまた違う、一度分解され、受信された声。指で空気を掻くような小さな息。からかう声の合間の、この撫でるような笑い声。  好きだと心の中で唱えるのは容易だけれど、それを言葉にするのは難しい。だからこそ尋ねる。 「秋津さんは、今日は何をしたの?」  知りたいってことは、好きだっていうこと。  受話器の向こうの空気がかすかに揺れる。電車が通ったのだろうか。そういえば、線路沿いに住んでいるのだとぼやいていた。振動の余韻がふわんふわんと谺する。ソファが小さく軋んでいる。飲み物が喉を通る、小さな音。出っ張った喉仏が上下するさまを思い浮かべて、眠気にも似た倒錯を覚える。 「今日はね、大変だったよ。まず寝坊したでしょ。目覚まし時計を買い換えたら、ちゃんとセットできてなかったみたいでさ。そんな日に限って車のキーが見当たらないんだよ、参ったなあ本当に……」  喋っている内にどんどん体温が上がっていくように感じた。熱いというわけではなく、ただ、ほかほかと温かい。相槌を打つだけでも楽しい。少しだけ、電話も悪くないのかもしれないと思い直す。  姿は見えないのに、秋津がどんな表情で喋っているのか手に取るように分かった。やさしい、穏やかな眼差しを思い起こす。きっとあの顔だ。あたたかくて、甘くて、そして――――。同時に、踏み込むことを赦さない、潔癖の瞳。 『ねえ、コクヨーくんは今日、どんな事があったの?』  秋津のその問い掛けに春斗は一瞬息を詰めた。端末を握り直して、口を開く。 「色々な事があったんだよ。まずはね……」  春斗はパンドラの箱に蓋をして、小さく笑った。いまはまだ、このままで――……。

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