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月霞む

 車窓に切り取られた星月夜をぼんやりと見つめる。灯点頃はとっくに暮れ、帰宅ラッシュもはるか遠く過去のこと。人もまばらな電車の中、僕はどうでもいいような飲み会へと向かわねばならず、文庫本を片手にぼんやりと揺られていた。時折ガタンと緩慢な起伏を交えながら、駅から駅まで運ばれていく。 (乗り物というより、移動装置だな、これは)  もはや小説は手に持っているだけだ。その腕さえだらりと垂れる。眠気がピークに達し、あくびで視界が滲んだ。 (コクヨーくんからは返信がないし……、飲み会はめんどうくさいし、あぁ。早く帰りたい)  大して重要なメッセージを送ったわけではないものの、いつもなら“クックック”というよくわからない笑い文字付きで丁寧な返信が返ってくるはずなのに、かれこれ丸一日、なんのアクションも返ってこない。 (風邪だろうか。もしも事故にあっていたとしても、僕にそれを知る術はない)  目頭を押さえ、ゆるく頭を振った。  もしも明日の夜になっても返信がなければ、学校へ行ってみようか。それとも家へ? それはさすがに、行き過ぎだろう。初めてのことだから、程度が分からない。僕とコクヨーくんのつながりはお互いの身ひとつしかない。事故を知らせてくれる横の繋がりはない。 (せめて浅倉くんの連絡先を教えてもらうべきだった)  いま後悔したところで詮無いこととは分かっていても、考えずにはいられない。  疲れているせいか、考えがどんどん暗がりの方へと吸い寄せられていく。一日連絡が取れなかっただけで、心配で心配で、元気に笑っている姿を確認したくて、胸の中で不安という名の黒い渦巻きが、内側へ内側へととぐろを巻いていくようだった。なまじっか前回の別れ方が最悪だったのだ。嫌われて……いたとしても文句は言えない。  ふ、と体の力を抜いて、シートに深く背を預ける。効きすぎているくらいの暖房が頬を熱くさせる。少々、熱っぽいような気がする。こめかみに汗が浮かんでいる感覚がする。吐いた息も熱い。ネクタイを緩め、僕はそのまま瞼を閉じてうっすらと夢の世界へ足を踏み入れた。  ――――…………?  目の前にコクヨーくんがいる。黒く長いマフラーを風にたなびかせ、煌びやかな宝石の埋め込まれた濃紫の大鎌を掲げて不敵に笑う。禍々しい籠手の嵌められた右手を挙げると、彼の足元の水たまりが重力を無視してザァっと巻き上がり、そして氷の礫となった。 「コ、コクヨーくん……?」 「秋津さん、見てください! おれ、とうとう本物の魔騎士になれましたよ」  氷の礫は彼の周囲をぐるぐると取り囲み、姿を覆い隠してしまいそうなほどだ。僕はもう目を開けていられなかった。 「クク、雪華よ……我とともに俗世を棄て、絶氷界を統べるべく暗黒の氷雪を降らせようぞ……」  雪華を象った革の眼帯を黒い鉄爪でなぞって冷笑を浮かべる。僕は浮遊し始めた彼の足に思い切り抱きついて、不甲斐なく涙ぐむ。 「まって、コクヨーくん! 魔騎士になっても、僕を置いていかないで!」  墨色の雪が舞う中、見下す彼の瞳が細められる。縋る指をやさしく解いた彼は更に高く高く飛翔していき、そして…………。 「おい、起きろって」  電車の揺れとはまた違う、がくがくと乱暴に揺さぶられる感覚にハッと飛び起きた。僕の肩を雑に押す少年が面食らったように手をどけて渋面を作った。 「ようやく起きた。あんた、寝過ごしたんじゃない?」 「あさ、くらくん……?」  なぜか涙の滲んでいる瞳が、浅倉くんの呆れたような表情を捉えた。ウインドブレーカーにテニスラケットを背負っている様から、部活帰りであることが窺える。遅くまで大変そうだと他人事のような感想を抱いた。 「変な顔で眠っていたけど、悪い夢でも見たのか?」 「いや、覚えてない……けど、なんだかすごく変な夢を見たのかもしれない……」  ふうん、と相槌を打ち、浅倉くんは少しの距離を空けてストンと隣に腰を下ろした。おや、と目を見張る。最初に会ったころのような剣呑さは窺えず、こちらのほうがたじろいでしまう。 「……結構、長いあいだ眠りこけていたんじゃない? 大丈夫なの?」 「えっ、あ、ああーっと、うん、大丈夫」  スマホで時間を確認し、安堵する。ついでにメッセージも確認してみるが、やはりまだコクヨーくんの目には留まっていないようだ。 「春斗、いま風邪で寝込んでるって」 「え、ああ、そ……、そうなんだ」  ドキリとする。あたかも不安を見透かされているかのようなタイミングに、とっさに呂律が回らなくなる。事故に巻き込まれたようではなくて一安心だが、寝込むほどならば相当に辛いだろう。  ――――風邪。風邪。スマホをかまう余裕すらないほどに苦しい風邪なのか。布団の中で激しく咳き込むコクヨーくんのかわいそうな姿を瞬時に想像して胸が痛んだ。自分が苦しい思いをするよりも、彼が苦しんでいるという事実の方がよっぽど痛くて苦しくて、つらい。 「知らなかったんだ」  浅倉くんは眉を上げ、意外そうな声を漏らした。 「まあ。……返事が来ないから、すこし心配していたんだ。遊園地でけっこうはしゃいでいたし、疲れも出たのかな」  遊園地で、遊園地の帰りで――――。淫靡な吐息が凍った帰り道の、あの車中の空気がリフレインする。無理を、させたのか。涙の筋が頬を冷やしてしまったせいで風邪を引いたのだろうか。じくじくと傷口が膿むように、後悔が先立つ。 「ゲームがやめられなくて、夜更かしもしていたしな」 「あれ? 春斗くんは早寝のイメージだったけど」 「いつもはね。新作のゲームが発売した週は、別」 「へぇ……」  案外、浅倉くんとまともに会話ができていることに驚いた。つっけんどんな応答は相変わらずだが、毛嫌いされているような感覚はない。険が取れ、思春期の弟を相手にしているようだ。あいにく一人っ子なので、それは完全なる勝手な想像でしかないのだけど。 「そういえば、聞きたかったことがあるんだけど」  会話がとぎれた瞬間を狙って切り出す。 「この間、その、……悪かったね。気を遣わせてしまって」 「この間?」 「遊園地の」と重ねると、合点がいったのか膝に頬杖をついて、“あぁ、それね”と、車窓に目を流した。目線につられて僕も車窓を見やり、ガラスに反射した僕たちの姿を何気なしに眺める。  浅倉くんの大人びた表情と仕草は、とてもコクヨーくんと同い年には見えない。当のコクヨーくんは、呪文のようなことばを唱える時だけ足を組んでふんぞり返る。その得意げな姿を思い出して小さな笑いがこぼれた。 「別に、……気を遣って退散したとかそういうのじゃないし。春斗のためっていうか……、同じだったから」 「同じ?」 「アキツサンと話しているときの春斗の顔と、……」  珍しく口ごもる。言いにくそうというより、言ってもいいのだろうかという逡巡が見て取れる。その優しすぎる迷いに、僕は頬を緩めて瞼を閉じた。 「……あとで君が喋ってしまったことを後悔したとしたら、僕は今から聞くことを全力で忘れるよ」 「……」 「君が言いたいなら、言えばいい。言いたくなくなったのなら、もう聞かない。聞かなかったことにしろと言われたら、僕はそれをできるよ」  数秒の間が開き、浅倉くんは再度薄い唇を開いた。向かいの車窓に映る僕に向かって話しかけている。不器用だ。 「あんたのことを話している顔と、亡くなったお袋さんのことを話してる時のアイツの表情が、同じだったから」  充血した瞳が、横目に僕を射抜く。 「お母さんのこと……」 「そう。同じ顔で喋るんだよ。本当に、同じ顔で……」  頬杖を解いて俯き、彼は両の指を組み合わせる。ため息を漏らす姿に寂寥が滲む。 「春斗から、母親の話、聞いてる?」  頷いて視線を宙に投げる。おかあさん、とうれしそうに呟く少年のとろける瞳を思い出す。 「多少は。小さい頃に病気で亡くなったって。あまり覚えてないらしいけど、大切そうに語ってたよ。本当に、大切そうに……」  自分のことばに、数秒経ってからはっと気付いた。  ムーンリバーが流れる車の中で、彼ははじめて語ってくれた。母親の思い出を映した曲のこと、目を閉じて幸せそうに鼻唄う横顔、大切そうにこころの中から取り出し、心底愛おしそうに、やわらかく微笑んで――――。 「春斗は苦しい思いをたくさんしてきたって、俺は知ってるから。授業参観とか、母の日とか、俺のお袋に優しくされて、泣きそうな顔をしてることもぜんぶ……」  ぜんぶ、しってる。 「――――だから、しょうがないでしょ。アキツサンが信用なるかどうかなんて俺には分からないけど、だからって楽しそうな春斗の邪魔なんてできるわけないでしょ。ずっと俺としか遊ばなかった春斗が、あんなに楽しそうに……、」  僕はことばを探したけれど、口を開くより前に浅倉くんの薄い唇から濁流のように声があふれ出していた。溜めていた僕に対する不安や、親友に対する寂寥を吐き出しているのだと窺えた。 「あいつ自身、たぶん自覚はないんだと思う。母親と同格に、もしかしたらそれ以上にアキツサンのことを……、いや、それはいい」 「……うん」 「だからいま話したことは、ぜんぶ俺の想像だと思ってほしい」  真摯なねがいを、僕は受け容れる。 「それでもあんたにこの話をしたのは――――、俺の友達を、俺以上に想ってくれる人が、もっといてくれたらいいなって思ったから……」  彼には彼なりの葛藤があったのだろう。大事な親友が、年上の同性にたぶらかされているのかもしれない。ずっと大事に思って寄り添ってきたがゆえに、排除したくて、しかしその一方で、同じくらい親友の事を想ってくれる人を探していた。 「……わかっているよ。蔑ろにしたりなんて、絶対にしない」  僕が知らない、僕と出会う前のコクヨーくん。今まで重ねてきた年月の中で、どれほどの寂しさや口惜しさ、孤独に直面し、その度にどう対処してきたのだろう。どれほどの涙を流し、耐えてきたのだろう。そんなやさしいコクヨーくんの“いま”があるのは、きっとこの浅倉くんの陰からの支えがあったからに違いない。  僕は彼らだけが育んできた“時間”に嫉妬などしない。ただ親友同士の結びつきに胸がいっぱいになるばかりで、春の微睡のような心地よさを噛み締めていた。  照れたように鼻を鳴らす浅倉くんは、きっと驚くほどやさしい子で、コクヨーくんを守るために、これ以上彼がかなしい思いをしないように、僕に対してきつく当たっていたのだろう。僕だけではなく、父子家庭へ偏見と無責任な好奇心を向ける未知のだれかに対しても、冷淡に、怜悧に、口を引き結んでは睨みつけてきたのだ。 「……春斗くんは、愛されているね」  浅倉くんはちらりとこちらに視線を向け、ぷいとそっぽを向いた。 (春斗くんはこんなにも愛されている。……うれしい、すごくうれしい)  僕は胸の中に息づく激情を力強く抱きしめた。それはあまりにも荒々しく暴れるので今すぐ車窓から投げ出したくなるほどだったけれど、絶対に手放してはいけないものだとも気付いていた。 ――――この胸にあるものは、まぎれもない、愛だ。

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