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トゥー・ドリフターズ 1

 時季外れの台風がじわじわと忍び寄る、土曜の午後五時。雨に湿るアスファルトの香りが街中に充満する。ぱらつく雨を透明のビニール傘で受け止めながら事務所を出たところで、僕は佇む人影に足を止めた。 「コクヨー、くん……?」  黒いフード付きのパーカーに、蝙蝠傘。薄墨の景色にくっきりと浮かんだ少年の影。姿。小さく縮こめた背に雨空を背負って、唇を引き結んでいる。申し訳なさそうに佇む姿を見付けた瞬間、モノトーンの味気ない世界が色付くような昂揚感が花咲いて僕の季節は一気に春を迎える。雨空は相変わらず濃紺で、彼の恰好も黒一色だというのに、どうしてこうも色彩豊かに見えるのだろう。 「久しぶりっ! こんなところでどうしたの?」  一歩ごと彼に近づくたび、事務的だった心臓の鼓動もぬくぬくと息衝き始める。こちらに気付いたコクヨーくんが他人行儀に小さくお辞儀をするのに合わせて、傘の露先から雨粒がぽたたっと滴った。まるで鹿威しのようだ。 「……たまたま、です。近くまで用事、あって……」 「ビジネス街に?」 「ウ……。たまたま、です」  雑居ビルや事務所ばかり立ち並ぶ界隈に用事があるとは思えない。大方、とっさのでまかせなんだろうけど。素直に会いに来たと言えばいいの照れ隠しだろうか、それとも出待ちのような体裁になってしまうことを危惧しているのだろうか。彼の瞳の表面を覆う微細な水分がゆるりと雨色を映している。揺れる湖面が何か言いたげでひどくいじらしい。  いつかの日曜日に二人で遊園地に行って以来、一度も顔を合わせていなかったし、連絡もほぼ取っていなかった。大風邪が長引いていたようでこちらからメッセージを送信することは控えていて、そのうえ彼も彼で遊園地の帰り道での一件をいまだ引きずっているようなところがあった。なんとなくぎこちないまま、かれこれ三週間くらいは経っただろうか。何度も電話をかけようとしたし、メールも打っては消してを繰り返していた。ここ最近、そんな記憶しかない。まるでコクヨーくんに出会う前の自分に戻ったようだった。  飲み会で友人がバカなことをしでかして大声を出して笑ったり、久しぶりに劇場に足を運んで質の高い映画を観たような気もするが、そのすべてがうわの空で滑っていった。瞬間瞬間はきちんと生きていたはずのにどこか他人事のような日々で、模糊とした時間の連続をただ漂流し続けていた。それなのに、遊園地の夜に開花した彼の恍惚の笑みや、車中に凝った白い息、ネオンに照らされる噴水の吹き上がる水の色や、半歩後ろではにかむ彼のゆるやかな歩調ばかりが夢見心地にリフレインし続けていた。鮮明に何度でも思い起こすことができるのは、ひとえに僕の生活がコクヨーくんを中心にして成り立っているせいだろうか。 「風邪は、もう大丈夫?」  こくん、と、また鹿威し。露先から雨粒が流れるのもデジャヴュだ。  湿った、ゆるやかな風が吹く。コクヨーくんは気まずそうに言葉を詰まらせ、傘をわずかに傾けて顔を隠してしまう。ぱたた、とまた露が垂れた。まるで彼が見えない涙をこぼしているように見えて、哀しくなる。  ふ、と軽く息を吐き、人差し指でコクヨーくんの傘の縁を持ち上げた。唇を軽く噛み、不安げに瞳を泳がせる表情がようやく見えた。 「この後、なにか予定は?」 「あ、……ない、です。けど」 「けど?」 「……ない、です」 「そっか、よかった。車、ここまで回すから、どこかへ行こうか」  こくん、と本日三度目の鹿威し。さすがに可笑しくなってしまって、笑いを零す。  毎日それなりに笑って過ごしていた筈なのに、久方ぶりに笑ったような気がした。ほんの少し連絡を取らなかったくらいで、そこまで落ち込んでいたのか、僕は。それほどまでに気を揉まれるくらいならば、こちらからメールの一通でも送ればよかったのだろうが、まだ大人になり切れない。彼に面と向かって拒絶でもされようものなら、自分がどうなるか分からない。 「さて、どうしようか」  ハンドルに上半身を凭れながら隣を伺うと、困ったように軽く微笑まれた。遠慮されている。どこか行きたい場所があろうと、コクヨーくんは絶対に口には出さない。大方、このあいだ遊園地に連れて行ってもらったのだから、もうわがままは言えないとでも思っているのだろう。全然わがままだとは思ってないし、むしろうれしかったのだけど、それを言葉にしたところで彼の遠慮癖は変わらないだろう。余計に恐縮させてしまうかもしれない。  無言の間を、雨音が塞いで繋ぎ止めてくれる。 「雨、止まないね」  降り注ぐ雨を断続的に拭うワイパーのメトロノームに合わせ、コクヨーくんが声を乗せた。   晩秋も潰え、暦はついに十一月を迎えた。雨の夕方ともなればすでに昏い。暖房もまだ満足に効いてはおらず、ついこの間の車中の淫行を思い起こしてしまう。痴態を思い出しながらコクヨーくんを眺めていると、居心地が悪そうに顔を背けられた。まじまじと見つめられれば困るだろう。特に彼のような子は。 『――――この時期には珍しい台風の上陸に、ニュースも賑わっています。日本で十一月中旬に台風が上陸したのは実に十二年振りということです。関東、中部地方では断続的な大雨となり――……』  気象情報を伝えるDJの柔らかい鼻声がカーステレオから流れ、僕たちは二人して耳を傾けた。なんとなく、彼と二人きりで過ごす台風の夜というのは、とんでもなく背徳的なことのように思えた。気象を、雨を、雨の音を隣で同じように聴く。ただそれだけのことを非日常として捉えてしまう。遊園地の夜を引きずっているのは、コクヨーくん以上に、僕の方だ。 「台風も夜には近くまで迫るみたいだし、」  口を開く。視線がスローに絡み合う。 「……僕の家にでも、来る?」  横目で吹きかけることばは、きっと淫靡に湿っている。 「え……、」  せっかくかち合った視線が途端にばらけてしまった。さっと走った彼の目線がふらふらと左右に蠢くたびに乳白の白目が光を帯びる。 「……あ、俺は秋津さんが良ければ、どこでも……」  しばしの放心の末、ようやく小声で了承される。速い瞬きに彼の動揺が窺える。  ギアをドライブに入れてゆっくりと車を進める。打ち付ける雨は矢のようだ。ワイパーをもう一段階強くして、冷たい雨の薄暮を走り出した。  この天候を考えれば、このままコクヨーくんを自宅まで送り届けるべきなのはすっかり承知していたし、恐らくは彼もそうするべきだとこころで感じている。それでもお互い何も言わないのは、そして何も問わないのは――……。  期待している。そわそわと、台風の密室を思い浮かべている。湿った壁、布団、ベッド、下心、欲望、あぁ……。  寂寥を埋めたがっている。

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