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トゥー・ドリフターズ 2

   *   *   *  数年前までは知る人ぞ知るマイナーなインディーズ映画の監督をしている父親と二人で暮らしていたのだが、目をかけていたという無名の舞台女優と再婚し、新妻と共に引っ越してしまった。別れの挨拶などもなく、新居へと移る旨を電話で事後報告された時はさすがに驚いた。とは言え、それい伴い一人暮らしには贅沢すぎる一軒家を無償で譲り受けたのだから、文句などあるはずもない。はなから長年に渡り別居状態に近かった。今更親の再婚に反発する歳でも性格でもあるまいし、二十代半ばにして悠悠自適に持ち家で一人やもめをしていたのだから、我ながら柵も何もない人生だ。心配といえば老後だが、今はもうすっかり諦めてしまった。結婚したとて、この性格では破局するのが目に見えている。    実母が亡くなったのは高校生の頃だったか。  現在の義母と同じく、まったく知名度のない舞台女優をしていて、料理はへたくそだったが化粧だけは上手かった。  一度、『あんたは顔がきれいだから』と、なかば無理やり化粧を施されて以来、化粧台にはいっさい近付かなかった。それが母の死後、ふいに彼女の軌跡に触れたくなり、その化粧台の引き出しを開けて、“ティファニーで朝食を“のテープを見付けた。母が音楽を聴く趣味があったことをその時はじめて知り、不思議な心地で何度もテープを巻き戻して聴いた。  化粧台の大きな鏡に映る母はきらきらしていた。紅いルージュが真珠の光を反射していて、鏡越しにウインクを寄越してみせるチャーミングな女性だった。  私生活ですら女優そのままに生きていた母が公演行脚の途中で交通事故に合って亡くなったと知らされたとき、僕はどこか他人事のような気持ちで電話応対をしていた。父は今まで見せたこともないほどに消沈していたし、親戚付き合いを嫌っていた母の親類のほとんどは彼女の死を切欠にしてはじめて顔を合わせた。どこか浮ついていて、まるで母を主演女優に据えたシネマに突然放り投げられたような心地でいた。  驚くほどに美しかったけれど、それと等しく無名な女優だった。母が心血を注いでいた公演間近の舞台だって、息子ひとりを観客にして繰り返し稽古していた割にはさして重要でもない脇役であったし、数日後の公演は代役を据えて幕が上がった。休演などはなかった。並みの親子よりも随分希薄な関係ではあったが、僕はそのとき、確かに誰よりも悔しさを感じていたのだ。  母は花売り役の脇役だった。役者が死んでも、演じるキャラクターの命は削られない。母でなくても、演じる誰かがいる限り花売りは生きていられるのだ。 「遠慮することはないよ。さあ上がって」 「は、はあ。お邪魔します」  おずおずと玄関に入る彼を促し、迷ったが二階の自室へと案内した。昔からの名残で、主となった今もリビングにはあまり居付かず、予てよりの自室をもっぱらの根城にしていた。広々としたリビングに一人でいるとやはり虚しい。ビールを飲みながら野球やらバラエティーを見るのを日課の生業としているが、これがまた虚しさに拍車をかける。  そんな事情もあり、それならばいっそ家を売り払ってどこか静かな場所のマンションの一部屋を買い上げようとも思ったのだが、手続きやら荷造りが面倒くさく、また築年数の古いこの家は売価も大したことはなさそうなので、実行に移す気は今のところない。 「意外と綺麗……」 「心外だな。これでも家事はそこそこ得意なんだよー?」  とんとんとん、と階段に二人分の足音が乗ったのは何年振りだろうか。あまり人を招くのは好きではないのだけれど、まさかコクヨーくんを自ら自宅に誘うことになるとは。 「本当に遠慮しないでね。飲み物を準備してくるから、適当にくつろいでいて」 「あ、……うん」  彼が戸惑いを顕わに階下へ降りる僕を追いすがるように見つめる。そこまで困惑されると、些か妙な罪悪感が芽生えてしまうのだけれど。まるで置き去りにされた子犬のようだ。  彼はどんな飲み物が好きだろうかと考えながら、冷蔵庫にはビールと栄養ドリンクと麦茶しか置いていないことに気付いた。これは失敗したなあと頭を掻き、仕方がないので熱い茶を沸かすことにした。肌寒いこの季節に冷たい茶を出すわけにもいくまい。盆に合わせて買ったはいいが、来客もなく封を切れなかったほうじ茶がようやく日の目を浴びた。 「お待たせお待たせ」 「あ、すいません……」  ガラスのローテーブルに急須と湯呑を乗せたお盆を置き、さてさてと背広を脱いでハンガーにかける。さすがにワイシャツだけでは寒いので、上に適当なカーディガンを羽織った。 「暖房入れたばかりで寒いだろうけど、たぶんそのうち温かくなると思うから」  十二畳の洋室に、慎ましやかな彼と二人きり。コクヨーくんは僕に勧められるままソファに座り、居心地が悪そうに縮こまっていた。  家に招いたのは僕だけれど、さすがに気まずい。仮にもつい昨日までこれといったやり取りをしていなかった訳だし、彼がどういう心算でわざわざ僕の職場まで会いに来たのか分からない以上、下手なことは言えない。隣に座ったまま、さてどうしようかと今更頭を悩ませた。衝動的に家に連れ込んだけれど、どうしよう。世間話でもするつもりなのか、僕は。この気まずさの中で、どうやって。  沈黙がキンと耳に付くようだったので、テレビのリモコンを取った。 「あ、秋津さん……」  しかし電源を入れる前に、その手をコクヨーくんに掴まれた。思いのほか力が強くてドキリとした。 「えっ、な、なに? どうしたの?」 「あ、その、俺、えーと……」  歯切れが悪い。リモコンを机の上に戻して、彼に向き合うようにして座り直すと膝と膝がぶつかった。少しむず痒い距離だ。まつ毛を数えられそうなほどに近い。 「秋津さんに、返すもの……、持ってきたから」  もぞ、と足元に置いていたカバンを探り、彼は茶封筒を僕に差し出した。なんだろう、とそれを開けて固まる。これは――――。 「お金……?」  三万円。もしかして、最初に会った時に無理やり押し付けた、あの? 「ずっと返そうと思っていたんだけど、なかなか言い出すタイミングが見つからなくて……、ずっと、……その、今日こそはって」  ぎゅ、と彼が唇を結ぶ。眉根が寄って今にも泣きだしそうだ。 「このお金を返してしまえば……、秋津さんとの繋がりが、無くなってしまうような気がして」 「えっ、そんなこと……ないでしょ」  苦しそうに眉根が寄る。一体この子は何を言い出すのか。ここ数年の間で一番ビックリした。おそらく寿命も何か月分か縮まっていることだろう。  コクヨーくんは僕の動揺にも気付かないのか、膝の上で拳を握ったり弛緩させたり、かと思えばズボンの皺を摘まんだりと落ち着きがない。忙しない呼吸が聞こえる。俯いた肩が震えている。茶化す言葉さえ出てこないほどにコクヨーくんは震えていた。  はぁ、と苦しげな呼気ののちに彼は面を上げる。 「秋津さんのお金を持っていれば、――――返すという名目で、また会う理由ができるから……」  なんて顔をするんだ。こっちまで苦しくなるような、そんな表情をするなんて。 「あ、いや、そもそも僕、お金を渡したことすら覚えてなかったし。というか、別に返さなくても……」 「いけません。もし俺がこのお金を自分のものにしてしまったら、それこそ秋津さんとは“お金を介しての関係”になってしまうから……」  それだけは嫌なんです、と震える声で言われ、僕は放心する。彼との出会いから今までのことが走馬灯のようにぐるぐると回り、ぐにゃりと歪んでめまいがした。 「コクヨーくん、きみは……」  そんな事をずっと考えていたのか、この子は。今まで、ずっと。カバンの中に僕が渡したお金を忍ばせ、僕に会っていたのか。返さなければ返さなければと思う一方で、返してしまえば関係が断絶されると思っていたのか、会うたびに。目の前にいる間中。電話でも、何度も僕に言おうとしていたのか。お金を返したいと。  僕はそんなこと、すっかり、忘れていたのに――――。 「これが健全な関係ではないことはわかっているし、そもそも最初から俺たちはどこかおかしい始まり方をしていたし、今更こんな事を言われて秋津さんが迷惑するのも分かっているんだけど、それでも、俺は……」  喉が鳴る。僕の冷えた手に、彼の掌が重なる。見上げる瞳がひどく辛そうで、かわいそうで――……。  暴力的な愛おしさに身震いする僕を真摯に見詰め、コクヨーくんの唇が決定打をもたらす。 「秋津さんと、もっとちゃんと繋がりたい……」  電撃が走る。こんな、こんなこと。彼の口から、照れ屋ですぐに瞳を逸らしてしまう彼が、僕を真正面から見据え、こんなにも痛切な表情をするのか。僕のために。 「理由がなくても、秋津さんに会う。……会いたい。そういう関係になりたい、です」 「コクヨーくん……」  少年のことばに酩酊する。台風の気配をずっと近くに感じる。雨脚が強まり、忙しなく窓を叩いている。  僕たちの止まった時の中で、ごうごうと唸る風の音だけが生きていた。 「……俺の言っている意味、分かる? 分かり、ますか?」  分かってほしい、分かっていますよね。言外のことばを聞く。 「――……っ」  ここで返答するのは容易い。いたいけな彼を受け入れてしまうのは簡単だ。しかし、男同士恋情を持ち寄り連れ添って、彼の未来を守れるのか。  幾度目かになる自問が浮かんでは消え、今夜の台風のように目まぐるしく騒乱する頭の中で明滅している。  責任、未来、彼の人生――――。 「きみは、……きっと、勘違いをしている」  意を決し絞り出すように告げると、コクヨーくんは今以上に顔を歪め、ふるふると震えながら俯く。枝垂れた髪の隙間から涙が散るのが見え、咽喉が焼けるような辛さを覚えた。裏切られたと、その涙は言っているような気がする。 「僕が、たまたまコクヨーくんの記憶に強烈に残るような事をしたから。僕が君に未知を教えたから。僕が思春期の君に、過度な接触をしたから」 「ち……、違う。それは、それもあるけど、でも、俺は……」 「たくさんの初めてのものを与えられたら、誰だって、焦がれる」  僕だってそうだった。初めて性を見せつけられた時、教え込まれた時、彼と同じように恋い焦がれ、激しく相手を欲した。けれど、きっと相手が誰であろうと同じように焦がれただろう。初めての、未知の感覚を教えてくれた相手なら、誰であろうと同じだ。  コクヨーくんだってきっとそうだ。あの時コクヨーくんにはじめての性を教え、引きずり出したのが僕じゃなかったとしても、恋焦がれ、求め、好きになっていたはずだ。こんなふうに、珍しく必死に言い募り、涙の粒を散らしたはずだ。僕以外の誰かに。 (僕以外の、〝誰か〟に……?)  その様を想像して、言い知れぬ不快感を覚えた。打ちひしがれうなだれるその細い肩を、誰かが優しく抱いたかもしれない。それとも乱暴に押さえつけたかもしれない。もしかしたらこの先だって、僕以外の誰かがコクヨーくんに触れるかもしれない。それが男だろうと、女だろうと、たとえ彼を心から案ずる真の善人だろうと、同じことだ。隣で呼吸をするのは、僕ではない。僕ではない誰かが彼に触れる。甘える。甘やかす。  責任だとか未来だとか、そんな大仰な事をのたまう以前に、僕はそれを許せるのか? 「一時の、気の迷いだとしても……、それでも俺は、秋津さんが好きです。好き、好き、……好きなんです」  ああ、彼はとうとう言ってしまった。言われてしまった。決定的な、一言を。  ぐらり、大きな眩暈がする。体中がカッカと燃えるように熱い。熱くて熱くて涙が溢れそうだった。渇いた喉を癒やす水気を求めて、彼の涙に湿る眦に唇を寄せて軽く啄む。慰めるように、労るように涙の筋を追いかけ、やがて唇に辿り着いた。びくりと彼の体が震えるのを両腕でしっかりと押さえ付ける。唇同士をわずかにくっ付けたまま様子を窺う。じっくりと、観察する。燃えるような体とは裏腹に、情欲はどこまでも欲深く冷静だった。コクヨーくんは戸惑ったように僕の腕に手を掛け、服をぎゅっと握る。それでも僕が動かない事を知ると、我慢できないと言わんばかりに唇を強く押し当ててきた。微熱でもあるのか、全身を駆ける血がドクドクと脈打つ。  控えめに服を掴む彼の手をはがして指と指を絡める。細い指だ。この指の一本一本が僕を求めているのだと思うと肚の底が疼いた。空いた手でコクヨーくんのさらさらとしたうなじを撫でながら、頑なな唇を舌で割った。

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