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トゥー・ドリフターズ 4

   *   *   *  一秒ごとに激しさを増す雨足のカプリチオ。停電による暗闇の中で、蛍のように淡いスマートフォンの光源で家主の顔を照らした。 「なに、どうしたの」  眩し気に瞳を細める家主になんでもないと返答をして、春斗は布団を被り直した。シーツにも枕にも秋津の残り香が漂っていて、どうにも落ち着かない。 「……秋津さん、まだ起きていたんですか」 「君こそね」 「……電気、いつ復旧するかな」 「どうだろ。朝には直ってたらいいね」 「……電柱、倒れていたりして」 「かもね」  真っ暗な中、ぽつぽつと中身のない会話をする。修学旅行の夜を思い出して、春斗は少し胸が熱くなった。初めての外泊。浅倉の家に泊まったことは数回あるけれど、年上の、自立した大人の家に外泊など初めてのことで、緊張と胸騒ぎと高揚がない交ぜになって思春期の鼓動を熱くさせる。  二人の距離のあり方をほんのり変えてしまうような淫靡な疑似性交の後、すっかり寝入ってしまった春斗が目覚めたのは夜の十時を回った頃で、冷たくなってしまったほうじ茶を優雅に啜る秋津に平謝りしたのはつい先ほどのこと。外はすっかり台風直撃、辺り一体が暴風雨一色という有様で、途方に暮れる春斗に、秋津が「泊まって行けばいいよ」と応えたのも自然の成り行きだった。ちゃっかり着替えや簡単な夜食が用意してあったのには些か驚いたが、好意に甘えて大樹に電話をかけ、外泊の旨を伝えた。どこにいるかという当然の問いに、『勉強を見て貰っている人の家』というなんとも怪しい言い訳をしたのだが、大樹は少し考えるそぶりを見せた後、迷惑をかけないようにとだけ告げ、寂しそうに電話を切った。言い知れぬ罪悪感がずっしりと圧し掛かるが、春斗はなるべく後ろめたさから目を逸らして、秋津が用意してくれた夜食を噛み締めるようにして食べた。  腹を満たしたあとは、どちらが先に風呂に入るのかどうかで、ちょっとした攻防となった。思春期真っただ中の春斗は、もしかしたら同じベッドで一緒に寝るのだろうかと悶々しながら身体を洗ったのだが、二階の部屋に戻るとテーブルが隅に退けられ、そのスペースを埋めるかのように客用の布団が一組綺麗に敷いてあった。ほ、と息が漏れたのは安堵か落胆か。  そしてしばらくテレビを眺めていると、今までで一番の雷鳴が轟き、そして唐突に暗闇が落ちた。復旧目処の知れぬ停電。どちらからともなく寝ようかと声を掛け合い、そして現在に至る。 「修学旅行みたいだね。何年前のことなんだか忘れたけれど」 「あ、あーうん、俺も今、同じこと考えてた」  秋津は床に敷いた客用布団で、春斗が体を沈めているベッドの方を向き横になっている。本来ならば家主である彼こそがベッドで寝る側の人間なのだけれど、譲り合いに譲り合いを重ね、こうなった。春斗も家主に床で寝てもらう訳にはいかないという心情のもと果敢に応戦したけれど、結局は古典的にじゃんけんによって寝る場所が決まったのだから、この一件も秋津の述べる、“修学旅行っぽさ”に拍車をかけているのかもしれない。 「あ、そういえば……」  ごそごそと起き上がった秋津は、どこへ仕舞ったかなと独りごちながら棚や収納箱の中を漁り、 「ああ、あったあった、これを灯そう」  と、綺麗にラッピングされている箱を雑な手つきで開封した。 「? なんですか?」 「アロマキャンドル。この間入ってきたばかりの事務の女の子から、お土産だよって菓子折りと一緒に貰ったんだけど、使い道がないでしょ。一人暮らしの男が」  事務の女の子、という何気ない一言に春斗は少し臆する。もしかしたらその子は、ただのお土産として渡したのではないかもしれない。乳白のパラフィンに、薄桃のハート型のワンポイント。その小さく控えめなハートに何かしらの意図が隠れているような気がするのだけれど、どうだろう。それを知ってか知らずか、おそらくはハートの意図に気付きつつも、まるで存在を忘れていたかのように棚の奥底から取り出すのだから秋津もなかなか酷い。況してや、その女の子の控えめな好意が練り込まれたキャンドルを、同性の思い人と共に燃やすのだから春斗のほうが勝手に罪悪感を抱いてしまう。 「秋津さん……、だけが、貰ったんですか?」 「うーん、そうだと思うよ。友達に配ったけど、ひとつだけ余ったから良かったら貰ってくださーいって」  なんの感慨もないように、秋津はライターの火をまっさらな芯に近づけた。じ、と独特な香りを放つそれは薄い闇の中で橙のゆらぎを生み出した。 「なんの匂いだろうね。ずっと、こんなのただの蝋燭だろってバカにしていたけど、案外悪くないかもね」  すん、と瞼を伏せて鼻を鳴らす秋津に倣って香りを検分する。 「……その香り、たぶんイランイランだよ。きっとその子、秋津さんのことが好きなんじゃないかな、たぶん。たぶん、だけど」  炎の舐める表情を窺うが、秋津に動揺は見られない。興味がなさそうに一瞬だけ宙に視線を投げた。 「どうだろう、そんな感じはしなかったけど。それより、ずいぶん詳しいんだね。イランイランっていうんだ、この匂い」 「……別に、詳しくは。少し前にクラスの女子の買い物に付き合って、その時に教えて貰っただけで」  秋津はいつもの調子で“イランイランって、淫乱淫乱みたいな語感だね”と茶化そうとしたのだが、クラスの女子という部分が妙に引っかかり、言葉を飲み込んだ。 「あ、イランイランっていうのは花なんだけど、それが結構面白い形をしていて、少し興味深い」  何か言いたげな秋津を怪訝そうに見やり、春斗はそのじとっとした視線の意図を汲んで慌てて手を振った。 「ああ、あ、あの、違いますよ、その子はその、浅倉に渡すからって、だから浅倉と一番親しい俺を誘っただけで、その、あの! 俺、全然違うから! び、微妙にクラスでも浮いてるし! 友達も浅倉しかいないし、そもそも孤高の黒騎士ですしっ!」  ここまで必死なモテない宣言も珍しい。あわあわと言葉を重ねる春斗に、秋津は耐えきれなくなって喉を鳴らして笑った。 「わかってるよ。それにしてもあの浅倉くんにアロマキャンドルねぇ。ふふ、ごめん、ちょっと面白いかも」 「実は俺も少し笑った。でも実際、浅倉はけっこうかわいいものが好きなんだよ」  春斗も声を潜めて笑う。以前ゲームセンターで、たこ焼きに手足が生えたキャラクターのぬいぐるみを獲得するために奮闘する浅倉を応援した経験があった。今でもそのぬいぐるみは浅倉の部屋に鎮座している。  キャンドルのゆらめく灯りを眺めていた秋津が、思い出し笑いを零す春斗に目を向けた。 「……コクヨーくんってさ、どんな女の子がタイプなの」 「……は?」 「いや、特に意味はないけれどね、修学旅行の定番と言えば、こういう話かなと思って。もしかして、違った?」 「違……わない、のかな、あー、たぶん」  経験がないので分からないが、たしかにそういう話で盛り上がっている一画があったような気もする。春斗の勝手な想像だと、秋津はそういった一画でしれっと話題をかっさらっていくタイプだ。静かに、滔々とワンランク上のオトナの世界を語る。容易に想像ができる。 「で、どんな子がタイプだったの」 「その、勝手に過去形にしないで。しないでいただけますか。我、あ、俺の好きなタイプは……、“エティノワール・V・O・イルルヴェルン時空転移師”だけど」 「ん?」  首を傾げられる。曇りのない瞳がぱちぱちと瞬く。 「 いま、好きなタイプを喋った? 人の名前? ごめん、聞き取れなかった」 「……だから、エティノワール・V・O・イルルヴェルン時空転移師、だけど?」  何か文句ありますか、とねめつける。  秋津は再度首を傾げながら口の中で何度か名前を咀嚼していたが、仕舞いには舌を噛んで枕に突っ伏していた。 「だ、大丈夫ですか……?」 「ウン。らいじょぶ。それにしても、コクヨーくんもちゃんと、好きな女の子がいるんだね」  ゆるく頬杖を突いて、からかうように瞳を細められる。 「あっ、当たり前です。エティーは尊敬に値する女性です。超弩級羅針盤神族にすら一騎当千、そして身命を懸けてラグナロクの夜明けを起こすエティーこそ我々が敬い崇める神族の祖で、あ、俺の黒騎士としての原点もエティーで……」 「うん。うんうん、わかったから一旦落ち着こう」  気付けば、まるで大演説をするかのごとく仁王立ちになり、時には拳を天高く付きだして愛を語っていた。どうどうと手で制されて春斗は大人しくベッドに入り直した。  秋津は腕が痺れてきたのか、頬杖を突く手を換えていた。 「それは……小説なの? 漫画? アニメとかゲーム? まさか、映画だったりする?」 「全部です」 「全部か」  秋津は顎をさすりながらふぅむと思案していた。 「そんなに展開されてんだ。だったら、タイトルくらいなら聞き覚えがあるかもね。最近ね、テレビでアニメのコマーシャルがしていたらつい目が行っちゃうんだよ。もしかしたらこれ、コクヨーくんも好きなのかなあって思っちゃうんだよね」  悪戯げに小首を傾げる横髪がさらりと滑る。春斗は答えに窮して、意味もなく寝間着の袖をいじくった。とてつもなく嬉しいことを言われているような気がする。 「きみがそんなに好きなものなら、漫画から読んでみようかな。ゲームはほとんどやったことないし、小説は時間がかかりそうだし」 「ほ、ほんとうですか! うれしい……っ!」  その言葉に、春斗は面を上げて大きく破顔した。  うれしい、ありがとう、と何度も繰り返す春斗に、秋津は照れ隠しのつもりなのかふいに布団を深く被り直した。 「さて。コクヨーくんのエティー好きは十分理解したし、もうそろそろ寝ようか。ところで、明日はどうする?」  どうする。選択肢を与えられている。春斗のこころが求めているのはひとつだ。もっと一緒にいたい。明日も一緒に過ごしたい。……しかし、口から零れ出たのは本心以外の、謂わば遠慮だった。 「あ、特に予定はないけど、これ以上、人様の休日を邪魔するのは……」  眉根を寄せてしょげしょげと声を詰らせると、ほの暗い闇の向こうに小さなため息が聞こえた。 「えぇ~? なに、いつもそんな事を考えているの? コクヨーくんってちょっと考えすぎというか、思考が重すぎというか……」 「あ、う、……はい」 「いや、責めてるわけじゃないよ。ほら僕、悪い人じゃないでしょ? 敬語じゃなくてもいいし。こう、言いたいこととかやりたい事とか、いやな事とかあったら言ってくれていいんだよ。僕もそのほうが嬉しいな。なるべく、気付くようにはするけどね」 「あ……、うん、……あり、ありがと、ござましゅ」  春斗は紅潮による発汗に悩まされながら、言葉尻を噛みつつぺこりと頭を下げた。  重い雨音が瓦を穿つ。大粒の雨が吹きすさんでいる。無言の隙間を雷雨が繋ぐ。二の句が継げぬ春斗は薄闇の向こうにいる秋津の気配を手探り、冷たい床に足を下ろして家主の寝床を目指した。たかが数歩の距離なのに、ひどく遠くに感じる。フローリングが綿雪のようにふわふわと覚束ない。興奮による視界狭隘。体よりもずっと先行してしまっている心を追うようにして、秋津の布団まで辿り着いた。僅かな風圧に、炎がくすぐったそうに身をくねらせた。 「なに、どうしたの」  ひそやかな笑い声とともに、秋津は掛け布団を浮かせて春斗の体を引き込んだ。抱き込まれた体は、季節に反して熱い。真正面から胸と胸がくっつくように抱かれると、ぶわりと汗が湧いた。 「あ、あの、一緒に、……一緒に、寝たい、です」 「いいよ」  つむじにキスを落とされた。かすかな吐息があたる。肯う声はささめくように溶け、つむじから浸潤していくようだった。身じろぎさえできない春斗の頬に手のひらが宛がわれ、面を上げさせられた。いま顔を見られるのは、いやだ……。 「どうして、そんな顔をしているの」 「……っ、」 「さっきまでの勢いは、どうしたのかな」  容赦なくのぞき込んでくる瞳の鏡に、ゆらりとくゆる燈。潔癖なシャンプーがふいに香った。イランイランをもはるかに凌駕する香り。ふたりぶんの、薄桃の欲の匂い。 「キス、したい?」  顎を人差し指で擽られ、春斗は反射的に頷いてしまう。微かに口角が上がった唇を眺めている間に、視線を絡められながら秋津はするすると体を下がらせた。胸ばかり見ていたのに、いまはすぐ近くに顔がある。気恥ずかしさに身を竦ませると、唇が額に押し当てられた。茫々とした暖房の層を掻くようにもつれ合い、二人して布団の陰りにすっぽり隠れてしまう。酸素濃度の薄い布団の闇の中で、息苦しさを感じながらも指を絡ませ、手探りで唇を探り当てる。まるで遊びのような口付けに、頭の中身だけが闇を抜け出してふわふわと散歩し始める。 「……このくらいに、しておこう。もう、寝ないと」  言葉を紡ぐ合間にも唇を啄み合う。何度も、何度も。唇同士がくっついたり離れたり、寝ないと……と囁いたり、布団の中は淫らに蒸れている。足が絡まり合うほどに体を密着させたのに、次第に息苦しさに耐えられなくなった二人は同時に布団から頭を出した。大きく深呼吸をして、照れくさそうに笑い合う。 「ね、コクヨーくん、眠られそう?」 「……歌、唄ってくれたら、眠れる。寝ます」 「なにそれ、逆に眠れなくなりそうだけど」 「寝ます」  脅しめいた願いに、秋津は困ったように頬を掻いた。 「まあいいけど、僕、音痴だよ。それに、流行の歌とかよく分からないし」  歯切れ悪く語尾を濁しながら、秋津は瞳を閉じた。 (歌……、かあさん……)  秋津は幼少の頃、化粧台に向かう亡き母の鼻歌を聴いて育っていた。……はずなのだが、おぼろげでその実あまり記憶にはないのだ。思い出といえば、空中を舞う白粉が粉雪みたいだとか、アイラインを引く母の眇められた凛とした眦。紅を差して鏡に向かって微笑む赤い唇。紙飛行機を折りながら、まるで映画を眺めるようにしてその光景を見守る秋津に、母は振り返って、 『おかあさん、美人でしょ。誠二郎の自慢になれる、美人女優のおかあさんよ』  と、きつい顔立ちには似合わないくしゃくしゃの笑顔で、秋津が手にしていた紙飛行機の羽にルージュでハートマークを書いてくれたのだ。

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