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トゥー・ドリフターズ 5

「秋津、さん……?」  黙りこくってしまった秋津を怪訝そうに見上げると、思い出にはぐれた迷子のような表情で口元を歪められた。 「なんでもないよ。はは、すこし、母さんのことを思い出しちゃった」 「あ、……、あの、……」 「なあに」 「秋津さんのお母さんは、どんなひとでしたか」  遠慮がちで思い出に踏み込むことが大の苦手である春斗のこころが、一歩、歩み出す。『知りたい』という純粋でつよい想いを視線に込めて、瞠目する秋津の焦げ茶の瞳を見据えた。想いを汲んだのか、秋津はふたたび瞼を下ろして記憶の中の鮮烈な光を追いかけた。春斗はその歴遊を見守る。 「そうだなあ……、美しい人だったよ。全然売れなかったけどね、女優をしていたんだ。凛としていて、強くて、仕事と容姿に誇りを持っていた。オードリー・ヘプバーンの化粧や振る舞いを研究していて、クローゼットの前で毎日ファッションショーだったよ。高価なスカーフを買うくせに、それで躊躇いもなく、僕の口に付いたケチャップとかを拭うんだよ。信じられないよね」  くぐもった笑い声に、春斗もつられて笑った。 「へえ、そうなんですか。写真とかあれば見てみたい、かも」 「あはは、いいよ。まだ残ってる。明日、見せてあげるよ」  はるか遠くを眺めて柔らかく笑むその笑い方を、春斗はよく知っていた。仏壇の写真をなぞる、大樹の慈しみに満ちた笑顔と同じ笑み。桜色の想い出を追う、漂流者のうつくしき笑顔だ。 「料理も下手だったし、掃除もきらいだった。でもね、いつだって背筋を伸ばしていたよ。憶えてる。背中に針金でも入ってるみたいだった。僕が退屈しているとね、女優の本領発揮ってくらいに本気の人形劇を演じてくれていたよ」 「ふふ、楽しそう」  ぼそぼそと内緒話のように、デリケートで大切で、もうこれ以上は絶対に増えないであろう思い出を語る。暴風雨はすっかり去ってしまっていて、ただ二人と夜だけが存在していた。 「……いまは、秋宮志都子さんというひとが僕の母。彼女も舞台女優をしているんだよ。あまり顔を合わせないけど」 「そう、ですか……」 「いいひとだよ。――さ、もういい時間だ。子守歌だったね、どうしようかなぁ」  うんうん考え込む秋津の困り顔に、春斗はぐっと喉を鳴らし、長い時間思案してから意を決してあるタイトルを口に出した。 「……ムーンリバーが、いいな……」  いつかの秋夜、そっぽを向いて車窓から流れる光を見てばかりいたドライブ。それを彩るメロディー。月の淡い光が海に砕けて揺蕩っている、そんな曲。そして、陽だまりのような母が口ずさんでいたおぼろげな音程。秋津の母の、楽し気な鼻歌。ふたりぶんの淡い記憶が交差する。 「途中で、やっぱりうるさいだなんて言わないでよ?」 「言わないって」  珍しく砕けた口調で首を竦ませると、秋津は小さくため息を吐いて、何度か深呼吸を繰り返した。もごもごと口内でメロディーを練る。 「――――、Moon river……wider than a mile……」  何度も何度も繰り返し聴いた、思い出の曲。偶然にも同じ歌をこころに秘め合っている春斗たちにとって、何より特別な言葉の羅列。あたたかく、はかない旋律。  笑われるかも、と危惧していた秋津をよそに、春斗は静かに耳を傾けている。歌でも唄わねば、キャンドルの芯が燃える音さえ聞こえてきそうだった。    *   *   *  春斗はうっすら瞼を開き、船を漕ぎながらも律儀に口ずさみ続ける秋津を眺めていた。目の前にいる秋津が幼少期の記憶を少しずつ紐解いているのだと気付き、必死に彼の唇から洩れる唄に耳を傾けた。  睡魔と戦いながら、駄々を捏ねる春斗のためにたったひとつの思い出の曲を口ずさんでいる。それだけでもう充分だった。これ以上のものは望まないと小さく心に決めた。やがて歌声は小さな寝息へと変わる。それをしっかりと見届け、春斗ももぞもぞと布団の中で小さく縮こまった。 「誠二郎さん……」  初めて本人を前にして口にする、彼の名。  いつもは名残の残る通話の後、何処にも繋がっていない端末に向けてぽつりと呟いていた名前。それなのに、今こうして目の前にいるのに、やはり声は届かない。届くのを恐れている。ふいにたまらなくなって、秋津のぱさぱさした前髪をかきわけて額に口付けをしてみた。深い眠りに落ちているのか、まるで反応がない。ほっとして、もう一度、ゆっくりと唇を落とす。微かに秋津の扇状の睫毛が震え、不意にころんと、涙の粒が落ちた。予想外のことに驚いて、まじまじとその寝顔を凝視した。 (泣くのか、秋津さんも……)  飄々と、掌の上で春斗をいいように弄ぶ彼が、こんなにもか弱く涙を流している。  ムーンリバー。秋津は何度も『あまりに記憶にないけれど』と口にしている。きっと彼は、自分でも忘れてしまっている数々の思い出を、今この瞬間にも夢の中で追体験しているのだ。けれど追想は、目覚めと同時にまた消え失せるのだろう。本当は心の奥底に大切に刻まれているのに、夢の中でその幻影を追っては朝陽とともに見失う。決して現実ではたどり着けず、模糊としていて、哀しい。 「……俺が時空転移師だったら、なにか変えられるのかな」  意味のない、ただの口を割いて出た他愛もない呟き。  きっと秋津は、心のどこかで春斗からの恋慕を拒絶している。最後の壁を打ち破れずにいる。気持ちに応える最後の決定打を見付けられずにいる。そしてそれを、春斗はひそやかに感じ取っている。現に、自分をどう思っているのかという問いに秋津は明確な言葉をくれなかった。言葉は誓約となる。言質となる。取り消すことも出来ないし、引き返せもしない。  人と近くなることへの恐れ。少しずつ距離は縮まっている。喜ばしいのに、等しく恐ろしい。こころのどこかで、距離が密になることを無意識に恐れている。  人と親しくなるという事は、相手の人生や思想、経験に己を刻むということだ。そしてその結果、相手は間違った方向へと進んでしまうかもしれない。進ませてしまうかもしれない。そんな危惧。ありもしない未来への予防線。  春斗はもやもやと捩れる思考を振り払い、秋津の熱い手をそっと握り瞳を閉じた。ジ、という微かな音と共に蝋燭も燃え尽きた。また、深く濃い暗闇が落ちる。  人は難しい。特に、大人は。

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