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フロウ・ストリーム 1
台風一過の街並みは一段と美しい。寒々とした枯れ木も、きらきらとした陽光の下で見れば、剥き出しの枝々に青空という葉を茂らせているように思える。
ごろごろと寝過ごし、着替えを持たぬまま泊った春斗に適当なシャツを貸してやったのは、ちょうど午前十時に差し掛かった頃だった。『袖がすこし余るね』と照れくさそうに服の袖を折る姿に、秋津はひっそりとこころを焦がした。もしも一緒に暮らしたとしたら、こういった光景が常となるのだろうか。目の前で着替え、共に歯磨きをしてひとつの布団で眠る。そんな妄想を脳内ではしたなく繰り広げては自嘲する。
「コクヨーくん、そろそろ行こうか」
「あっ、はい!」
身支度を整えた二人は、空き缶をガラガラと引きずるブライダルカーにでも乗った気分で爽やかに出発した。
向かうは小さな喫茶店。起き抜けに、『ティファニーで朝食を食べよう』と、悪戯めいた調子で瞳を細めた秋津に春斗は目を白黒させた。それが“ティファニー”という名の喫茶店を指した台詞だと気付いた瞬間、大きく破顔した。
上機嫌に車を転がす秋津から晴れやかな空気を感じ、春斗も口元を緩めて車窓を撫でては去る景色を眺めていた。初冬の夕方は寒々しく寂しいけれど、午前中は凜としていて好きだ。そして、冬の星映える真夜中も愛おしい。澄み切った雲一つない濃紺の寒空、ちかちかとした金平糖の星。昨夜、秋津の隣で丸まりながらそんな夢を見たような気がする。
S湾に沿うように敷かれた国道をひた走り、街中を抜けた旧道沿いに件の“ティファニー”は在った。童話の中に出てくるような、アンティークな喫茶店だ。入口近くに小さな黒板があって、ランチメニューが控えめなイラストと共に記されている。赤煉瓦の壁にアイビーが這い、青銅のランプは時代を感じさせるように上品に錆びている。西向きに大きな窓があって、昼間は少し薄暗いけれど、きっと夕方になれば橙の夕日が店内をほのかに暖かく照らすのだろう。
「こういう喫茶店もなかなかいいでしょ」
と、秋津は誇らしそうに胸を張った。
「ここのコーヒーは一杯ずつサイフォンで淹れているから、すごくおいしいよ」
「……楽しみです」
春斗はコーヒーが飲めないことを秘密にした。大人ぶりたい年頃なのだ。
ドアベルを鳴らしながら店内に入り、奥のテーブルに向かい合って座る。思ったよりも奥行きがあって広い。内装も外観を裏切らぬレトロな造りになっており、春斗は初めて“喫茶店”というものの魅力を知ったような気がした。まるで時が止まったかのように、すべてが静かに息をしている。ゆったりと流れるスウィングを効かせたジャズがくすぐったい。飾りの蓄音器や、螺鈿細工のランプシェード。アンティーク調の椅子の座面には真紅のベロアが張られている。
「セ、セベルリアオーツ王がこういう椅子に座っていました!」
春斗の瞳が真冬の星のように輝く。
「誰それ、聞いたことないけど」
「エティーの実父だよ。ほら、ヨーツンヘイム国の」
「へぇ~……」
春斗が焦がれるエティーを主人公にした作品の漫画を借りる約束をしたのだが、秋津はふと不安になった。設定を覚えられる気がしない。危惧を抱えながらも革張りのメニューを手に取って差し出した。
「さ、何が食べたい?」
二人してテーブル越しに身を寄せ合い、輝かしいメニューの羅列を追う。近くなった距離にどぎまぎしているのは相変わらず春斗だけで、秋津は少年の動揺を感じ取りながらわざと顔を寄せる。
「あ……」
動揺した春斗がサッと距離を取る。淑やかな女学生のように、頬を茹だらせながら胸に手を当てて目を丸くしている。手が触れ合ったわけでもあるまいに、この初心すぎる反応。
「どうかした?」
「あ。あ、いや……」
キスも、それ以上のことだってしているのに。サイズの合わないだぶつく服を着て、秋津の匂いを纏わせて、香りの宿主の前で縮こまっている。にや、と頬を弛緩させる秋津の甘い雰囲気を振り払うように、春斗は革張りのメニューブックに目を落とす。
「あっ、秋津さんは、決まった? 決まりましたか?」
「僕はねー、Aセットとブレンドコーヒーかな」
「厚焼き玉子のサンド、いいな。おれ、俺は……」
「ふふ、ゆっくり選んでいいよ。コクヨーくんの思案顔、なんだか面白いし」
頬杖を突いてにこにこしている秋津の視線をつむじに浴びながら、再度メニューに目を落とす。穴が開くほど見つめ続け、結局はハムとクレソンのラップサンドとあたたかいカフェオレを注文した。
黄色い百合を模したガラスランプの下で、初老のマスターが優雅にサイフォンを操る。何かを話すわけでもなく、二人してその動作を見守っていた。アルコールランプで温められたフラスコ内の湯がロートにせり上がってコーヒー豆と混ざり合い、そして急降下していく様はさながら理科の実験そのもので、なんだか懐かしい気持ちになる。二人きりで理科の授業を受ける気分は、こんなだろうか。はじめてのドライブの夜、『コクヨーくんと一緒に授業を受けてみたいなあ』とごちた秋津の気持ちが、いまなら分かる気がした。分割された二人分の想い出、知らない過去のこと。一つに統合して共有して分かち合いたいし、できるのならば、過去から順に遡って同じ時間を過ごしてみたい。
「飲み屋でワイワイ騒ぎながら酒を飲むのも好きだけど、僕はやっぱり、晴れた午前中にふらっとここに寄って、ゆったり珈琲を飲むのが好きなんだ。同僚には、じじくさいだとか言われるんだけど」
穏やかにマスターの手さばきを眺めていた秋津の横顔はひどく優しげで、春斗は少しだけ彼を遠く感じた。けっして寂しいという気持ちではない。秋津は大人だ。友人との飲み会、同僚との飲み会、そして一人きりの珈琲。ひみつの喫茶店。そこに今、春斗も存在している。同じように頬杖を突いて、同じ匂いを嗅いで、同じテーブルに着いて、一緒に料理を待っている。まるで彼のテリトリーに入れてもらえたような気がして、いまこうして一つの想い出を築いていることを春斗は嬉しく思いつつも、過ごしてきた年月の違いを再認識してしまったのだ。
「お待ちどおさま」
潮の満ち引きのように、高揚と低落を繰り返す春斗に陰が落ちる。上背のあるマスターが料理を運んできた。白い口髭の下でくっと上がった口角が若々しく、糊の利いたシャツが几帳面な性格を表しているようだった。痩躯を包む黒いベストも似合っている。一抹のメランコリーを打ち消し、ぺこりと頭を下げる。
「今日は、弟さんとご一緒?」
コトリと皿を置き、マスターはニヤリと秋津に微笑みかけた。常連に対するそれというよりもっと親密な、まるで孫に対する笑みだった。
「まあ……、そんなところですかね」
秋津はちらりと春斗を窺いながらあいまいに返す。さすがに、恋愛関係に似た仲とは言えない。春斗は気まずそうにテーブルの上の料理に目を落としている。
「へぇ。なんだかそうしていると、秋津くんも立派なお兄さんに見えるね」
「マスターねぇ、いったい僕をいくつだと思ってるんですか」
「この歳になると、白髪さえ生えてなけりゃあみーんな子供に見えるんですよ」
楽しげに笑うマスターは、見た目よりずっと砕けて好々爺のように見える。二人のやり取りを見守りながら、はにかむ姿を新鮮な気持ちで眺めていた。
「そちらのお客さんの口に合えばいいけど。……じゃあ、ごゆっくり」
最後に春斗に柔らかく微笑んでお辞儀をし、マスターは所定の位置へ戻ってグラスを磨き始めた。途切れぬメロディーのように、所作が優美だ。まだ口に入れてはいないけれど、きっとこの人の作る料理はおいしいのだと直感した。
「まったく、マスターはいつもあの調子なんだよ」
「仲が良いんですね。家族みたい」
「ふふ、そうだね。……さ、食べようか」
秋津は丁寧に手を合わせ、いただきますと呟いてからフォークを手に取る。春斗も慌てて後を追うように『いただきます』をしてカップに手を伸ばした。ブルーオニオンの清々しいカップに甘い湯気がくゆる。息を吹きかけてから一口飲んで、すぐに笑みが零れた。
「すごい、おいしい……」
ほうと熱いため息を吐き出す春斗に、秋津も瞳だけで笑む。
「でしょう、良かったあ。あの爺さん、なかなか侮れないでしょ」
秋津はまるで自分が褒められたかのように喜び、親指と人差し指で丸を作って遠くのマスターに誇示した。マスターもそれ親指を立てて返し、ニカリと笑う。してやったりなやり取りに気恥ずかしくなり、咳払いをして改めて皿と対峙した。
金の縁取りに赤いアマリリスを描いた皿の片隅には鮮やかな生野菜、大きめのジャガイモがごろごろしたポテトサラダが鎮座している。主役にもなり得そうな貫禄だ。大きな口でサンドを食み、崩れた断面と味蕾で内容を吟味する。厚切りのハムは香ばしくソテーしてあって、ほどよい塩気がクレソンとよく合っている。
「おいしい?」
答えは分かっているというような含み笑いでの問いに、大きく何度も頷いた。言葉なんていらない。またもやマスターと秋津の間で謎のコンタクトが取られる。
「……あの、それ、恥ずかしいから、やめて。やめてください」
さすがにいたたまれない。けれど、なんだか無性に楽しい。茶目っ気たっぷりのマスターが作る、素朴で細かな気が利いた料理と、鼻歌でも零れそうなほどご機嫌にサンドイッチを食べ進める秋津。指先がパンに柔らかく沈んでいる。俗世とは切り離された穏やかな時間。食器が立てる軽やかな音。カランと水の中で氷が揺らぐ音。すべてがゆるやかに流れゆく。
時折短い会話をしながら、二人は示し合わせたようにサンドイッチの一つを交換し合った。
「コクヨーくん、これもあげるよ」
秋津が皿に乗せたのは、モーニングに付いてくるデザートだった。冷たいココットの中身は、アーモンドが乗ったかぼちゃのプリン。春斗の瞳が輝いた。
「え、いいんですか?」
「いいよ。きっとそれも気に入ってくれると思うから、食べてみて」
「あ、じゃあ、あの、半分だけ……」
一つのものを半分にして食べる。それだけで特別な感情が湧いてくる。
目の前でゆったりと薄く笑みを浮かべる大人の表情を盗み見た。コーヒーカップの華奢な取っ手を指でいたずらになぞる秋津をひそやかに視界の隅で眺め、改めて心の内に拡がる、薄桃色のきもちを確かめた。着ているシャツから香る、やさしい秋津の香り。すき、と口の中で唱え、行き場の無い言葉をカフェオレで飲み下した。
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